…「---決して 途中で止まってはいけない」OSHO

…友人の FB 投稿記事(講話/抜粋)を転載します。


また
人は数知れない
誘惑に惑わされては
ならない。
これが起こるのは、
静かな境地が
はじまった後、
突然
あらゆる
妄想のつながりが
続々と
現れてくるときである。
それを
打ち破ろうとしても、
どうにもならない。
その妄想を追うと、
気分が
軽くなったような
感じがする。

精神分析
道を誤ったのはここだ。
精神分析
自由連想の技法に
なってしまった。
あなたは
どこまでも
つづけてゆくことができる。
想念が
次から次へと現れ、
それが
無限につづいてゆく。

次から次へと
現れる想念から
身を引いたままで
いなければいけない。

想念はやって来て、
四方から
あなたを取り囲む。
想念は雲に似ている。
わずかに
顔をのぞかせていた
青空さえも消えてゆく。
そして
想念で
はち切れそうになると、
人は本能的に
闘いはじめる。
瞑想とは
無念無想の状態
であることを読んで
知っているからだ。
だが、
闘っても
けっして
無念無想にはなれない。
闘っても
負けるだけだ。
闘うことそのものが
敗北の原因になる。
影と闘うことはできない。
闘っても負けるだけだ。
自分の影と
闘おうとしたら、
あなたは
負けるしかない――
影が
とても強いからではなく、
影など
存在しないからだ。

存在しないものと闘って、
どうして
勝つことができるだろう?
想念は影だ。
闘ってはいけない。

闘わなければ、
もうひとつの道が
開かれる――
精神分析
選んだのはそれだ。
その場合には、
想念とともに動き、
想念を自由に漂わせ、
自由に連想を起こらせる。
ひとつの想念が
別の想念に結びつき、
またその想念が
別の想念に結びついて
次々と
連想が起こり、
それが
延々と果てしなく、
うんざりするほど
つづいてゆく。

これには
一種のくつろぎに似た
感覚がともなう。
精神分析が終わると、
人々が安堵し、
救われた気持ちになるのは
そのためだ。
救われたわけでもないし、
助かったわけでもない。
たんに闘いが
消えただけだ。

あなたが
緊張するのは
闘うからだ。
闘わなければ
緊張は消える――
そして
緊張が消えることで、
あたかも
救われたような気分になる。

ムラ・ナスルディンは、
2サイズも小さい、
きちきちの靴をはいていた。
彼は一日中不平をこぼし、
靴に腹を立てていた。
ある日、
私は彼に尋ねた。
「靴を変えれば
 いいじゃないか。
 どうして
 文句ばかり
 言っているんだい?
 誰もその靴をはけと
 無理強いしていないだろう。
 新しい靴を
 買えばいいじゃないか」
彼は言った。
「だめだ!
 絶対にいやだ!」
私は言った
「なぜだい?」
彼は言った。
「それが唯一の
 慰めだからだよ。
 一日中
 靴と格闘したあと、
 家に帰って
 靴を放り出し、
 ベッドに横になると、
 とても気分がいいんだよ!」

それは気分がいい。
想念と闘っても
勝ち目がないので、
闘うことをやめ、
想念を自由に漂わせ、
想念とともに動いてゆくと、
気分がよい。
精神分析の秘密は
ひとえにそこにある。
精神分析
まったく助けにならない。
闘いをやめさせるから、
気分がよくなるだけだ。

呂祖は言う。
「どちらも正しくない。
 闘う必要はないし、
 想念を野放しにして、
 その後を追う必要もない。
 あなたは見守る人、
 目撃者のままでいればいい」

これは
主人が
召使になってしまったことを
意味する。

想念の後を追えば、
主人が
奴隷になってしまう。

もし
このような状態に
長くとどまっていると、
幻想に満ちた
欲望の世界に入ってしまう。

主人の立場を
取りもどさなければならない。
あなたは奴隷ではなく
主人にならねばならない。
主人であるとは
どういうことだろう?

目撃者でいることが
主人であることだ。

そこにある想念を
見守りなさい。
穏やかに、
静かに、
見守りなさい。
想念が
来ては去るに
まかせなさい。
想念が
現れては消えるに
まかせなさい。

あなたは
ただ気づいている――
想念が現れ、
とどまり、
去ってゆく――

すると、
まもなく
想念が現れる回数が
どんどん減ってゆく
ポイントが来る。
そしていつの日か、
すきまが現れ……
いっさいの想念が消えている。
そのすきまのなかで、
最初の神の体験が起こる。

最善の場合には、
天国に生まれ、
最悪の場合には、
野狐の世界に生まれる。
確かに、
こういった野狐の霊は
有名な山々に住み、
風や月、
花や果実を楽しみ、
珊瑚のような樹や
宝石のような草を
楽しんでいるが、
果報が尽きれば、
再び混乱の世界に
生まれ変わるのである。

瞑想がうまく進むと、
あなたは天国に、
永遠の至福のなかに
生まれる。
しくじり、
道をはずれると……
道家では、
そうして道を
はずれることを、
最悪の場合には、
野狐の世界に生まれる、
と表現している。

野狐とは
詩人のスピリットだ。
野狐とは
空想力に富んだ
精神のことだ。
瞑想の途中でしくじっても、
何かが得られる。
あなたは樹や花、
世界やその美しさを
前よりももっと
楽しむことが
できるようになる。

だが、
やがて
瞑想によって
つくりだされた
エネルギーは尽き、
あなたは
昔の混乱に
舞いもどらざるを
えなくなる。

いいかね、
瞑想がうまく進むと、
喜びは永遠に
あなたのものになる。
だが、
失敗しても
すばらしい喜びや
詩の瞬間が
いくつかは訪れる。
瞑想を
しくじった者は
詩人になる。
瞑想を
達成した者は
見者になる。

見者は
永遠の詩人であり、
詩人は
つかのまの詩人だ。

だから、
ときどき
こういうことが起こる。
あなたは瞑想を
少しかじるが、
気分が高揚すると
やめてしまう。
あなたは
すべてが達成されたと
思い込む。

緑の樹も
赤い薔薇も
鮮やかさを増し、
恋はすばらしく、
様々なことが
起こりはじめている――
もう
面倒なことはやめよう。
だが、
つくりだされた
エネルギーは
まもなく尽きる。
あなたは野狐になる。

世界中で
薬物(ドラッグ)によって
生み出されているものは
それだ。
薬物は
野狐しか生みださない。
だが、
瞑想も、
完結しなければ、
薬物と
変わらないものになる。

ひとたび
決意したら、
全身全霊で
関わらねばならない。
あなたは
何があっても
その果てまで
行かねばならない。

それは挑戦だ。
この挑戦を受け入れ、
内なる探求の
最も美しい旅に
出かけなさい。
そして到達するまで、
台風の目に入るまで、
けっして途中で
止まってはいけない。



Osho - The Secret Of Secrets