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…友人のFB 投稿記事を転載---OSHO の講話(抜粋)です。

エクスタシーは
人間が完全に
忘れてしまっている言葉だ。
彼はそれを忘れるように
強いられてきた。
彼はそれを忘れるように
強制されてきた。
社会はそれに対立し、
文明はそれに対立している。
社会は惨めさに
この上もない投資をしている。
それは惨めさに依存し、
惨めさを食糧とし、
惨めさによって
生き延びている。
社会は
人間のためにはない。
社会は人間を、
それ自体の手段として
利用している。
 
社会のほうが
人間よりも
重要になってしまった。
文化、文明、教会と
いったもののほうが
重要になってしまった。
それらは
人間のためのもの
だったはずだが、
いまや
人間のためにはない。
それらは
ほとんど全プロセスを逆行し、
いまや
人間がそれらのために
存在している。
 
子どもはみな
エクスタシーに満ちて
生まれてくる。
エクスタシーは自然なものだ。
それは
偉大な賢者たちにだけ
起こるものではない。
それは誰もが世界に
持ち込んでくるものであり、
誰もがそれと共に
生まれてくる。
それは
生のもっとも奥深い核だ。
それは
生きているということの一部だ。
生はエクスタシーだ。
子どもはみな
それを世界に持ち込んでくるが、
そこで
社会が子どもに飛びかかり、
エクスタシーの可能性を
破壊しはじめ、
子どもを惨めにし、
子どもを
条件づけするようになる。
 
社会は神経症的であり、
エクスタティックな人びとが
ここにあることを許せない。
彼らは社会にとっては危険だ。
その仕組みを
理解しようとしてみなさい。
そうすれば
ものごとは
もっと簡単になるだろう。
 
エクスタシーに満ちた人を
コントロールすることは
できない。
それはできない相談だ。
コントロールできるのは
惨めな人間だけだ。
エクスタシーに満ちた人は
いつも自由を失わない。
エクスタシーとは
自由であることだ。
彼を奴隷の境遇に
おとしめることはできない。
彼はそう簡単には
叩きつぶされないし、
彼を牢獄に住むように
強いることはできない。
彼は星々のもとで
踊りたがるだろうし、
風と共に歩きたがるだろうし、
太陽や月と話をしたがるだろう。
彼は広大なもの、
限りなきもの、
巨大なもの、
測り知れないものを必要とする。
彼を暗い独房のなかで
暮らすよう
誘うことはできない。
彼を奴隷にすることはできない。
彼は自分の人生を生きて、
自分のしたいことをする。
これは社会にとっては
じつに厄介なことだ。
多くのエクスタティックな
人びとがいたら、
社会は崩壊してしまう、
その屋台骨は
持ちこたえられないと感じる。
 
エクスタティックな人びとは
反逆者だ。
いいかな、
私はエクスタシーに満ちた人を
「革命家」ではなく
「反逆者」と呼ぶ。
革命家とは
社会を変革しようとする人だが、
彼はそれを別の社会で
置き換えようとする。
反逆者は個人で生きようとし、
世界に固定した
社会構造があることを望まない。
反逆者は
この社会を別の社会と
置き換えることを
望んではいない。
なぜなら、
社会というものが
すべて同じであることは
明らかだからだ。
資本主義者と共産主義者
全体主義者と社会主義者は
みな従兄弟の関係にある。
彼らのあいだに大差はない。
社会は社会だ。
教会というものはみな同じだ――
ヒンドゥー教であろうと、
キリスト教であろうと、
イスラム教であろうと。
 
構造が
いったん権力を握ってしまうと、
それは人びとが
エクスタシーに満ちることを
許さない。
なぜなら、
エクスタシーは
構造に反しているからだ。
よく聴いて、
この言葉に
瞑想してみるといい――
エクスタシーは
構造に反している。
エクスタシーは
反逆的であって、
それは
革命的ではない。
 
革命家は
政治的な人間だ。
反逆者は
宗教的な人間だ。
革命家は別の構造を、
自らが欲したものを、
自らのユートピアを望むが、
構造というものはみな同じだ。
彼は権力の座に就きたい。
彼は圧政者にはなりたいが、
しいたげられる人には
なりたくない。
彼は搾取者にはなりたいが、
搾取される側には回りたくない。
支配はしたいけれど
支配されたくはない。

反逆者は
支配したくはないし
支配されたくもない人だ。
反逆者とは
世界に
いかなる支配体制も
望まない人だ。
反逆者はアナーキーだ。
反逆者とは
人間がつくった構造ではなく
自然を信頼し、
自然なものが
損なわれなければ
あらゆるものは
美しくなると信じている人だ。
そして、
それはほんとうだ!
 
これほどの広大な宇宙が
いかなる政府もなしに
動いている。
動物たち、小鳥たち、樹々、
あらゆるものが
いかなる政府もなしに
動いている。
なぜ人間には
政府が必要なのか? 
なにかが
間違っているに違いない。
なぜ人間は支配者なしでは
生きられないほど
神経症的なのか?

いまや
それは悪循環になっている。
人間は支配者なしでも
生きられるが、
彼は一度も
その機会を
与えられたことがない――
支配者はあなたがたに
いかなる機会も
与えようとはしない。
ひとたび
支配者なしでも
生きられることを知ったなら、
誰が彼らの存在を望むだろう? 
誰が彼らを支持するだろう? 
たったいまあなたがたは
自らの敵を支持している。
あなたがたは
自らの敵に投票している。
二人の敵が
大統領選挙に立候補して、
あなたがたはそれを選ぶ。
どちらも同じだ。
それはまるで
監獄を選ぶ自由、
入りたい監獄を選ぶ自由を
与えられているようなものだ。
しかもあなたがたは
うれしそうに投票する――
僕はAかBの監獄に入りたいんだ、
私は共和党の監獄を信じる、
僕は民主党の監獄を信じる、
と。
だが、
どちらも監獄だ。
そしていったん
監獄を支持してしまうと、
監獄は独自のやり方で
働きかける。
そうなったら
監獄は
あなたが自由を味わうことを
許さない。
 
だから、
子どもはごく幼い頃から
自由を味わうことを許されない。
なぜなら、
いったん自由というものを
知ってしまったら、
彼は譲歩しようとはしないし、
妥協しようとはしないし、
暗い独房のなかで
暮らそうなどという気は
さらさら起こさなくなるからだ。
たとえ
死を選ばなければ
ならないとしても、
彼は誰かが自分を
奴隷の境遇に
おとしめることを許さない。
彼は自己を主張するだろう。
もちろん彼は
ほかの人びとに対して
権力を振るうことに
興味を持つことはない。
そういったものは
神経症的な傾向だ。
人びとに対して
権力を振るうことに
興味を持ちすぎていることは、
あなたは
深いところでは無力であり、
権力を持たない限り
ほかの人びとに
圧倒されてしまうのではないかと
恐れていることを示している。
 
マキャヴェリ
「攻撃こそ最大の防御なり」
と言っている。
自分を守るには
先制攻撃をしかけるのが
いちばんいい。
東洋であれ西洋であれ、
世界中のいわゆる政治家たちは
深いところでは
ごく弱い人びとであり、
劣等感にさいなまれており、
政治的な権力を持たない限り
誰かに
搾取されてしまうのではないか、
搾取されるぐらいなら
搾取するほうがましだと
考えている。
搾取される者も
搾取する者も、
どちらも
同じ船に乗っており、
どちらも
その船を助け、
その船を守っている。

子どもがいったん
自由の味を知ってしまうと、
彼は二度と社会の、教会の、
団体の、政党の一員にはならない。
彼はひとりの個人にとどまり、
自由なままでいて、
自分のまわりに
自由の躍動感をかもし出す。
彼の存在そのものが
自由への扉になる……。
 
いつであれ
子どもが幸せを感じていると、
なにをやっているときであれ、
かならず誰かがやって来て
彼を止めてしまう――
「そんなことをしてはいけない!」
と。
だんだんと子どもは
「僕が幸せを感じることは
 間違っているんだ」
と理解するようになる。
そしてもちろん、
彼は他人がしろと
命じたことをやっても
少しも幸せを感じない。
それは彼のなかから
自然に湧き起こってきた欲求では
ないからだ。
それで
彼は惨めと感じることが
正しいのであり、
幸せと感じることは
間違っているのだと
知るようになる。
そういった
深い連想が生まれてくる。
 
学校の教室の外で
ふいに一羽の小鳥が
歌いはじめたら、
もちろん、
子どもは一心に
その小鳥の声に耳をそばだてる――
醜いチョークを持って
黒板のそばに立っている
算数の教師ではなくて。
だが、
教師のほうが小鳥よりも力を、
政治的な力を持っている。
確かに、
小鳥には力はないけれど、
美しさがある。
小鳥は
「よく聞け!
 これに集中しろ!」
と頭を叩くことなしに
子どもを魅きつける。
単純に、自発的に、自然に、
子どもの意識は
窓の外へと流れ出してゆく。
それは小鳥のもとへと至る。
彼のハートはそこにあるが、
目は黒板のほうを
見なければならない。
見たいようなものなど
なにもないが、
そのふりを
しなければならない。
 
幸せであることは
間違っている。
幸せになるたびに、
なにかが
間違っているのではないかと
子どもは恐れるようになる。
 
子どもが
自分の肉体と遊んでいたら、
それは間違ったこととされる。
子どもが
自分の性器と遊んでいたら、
それは間違ったこととされる。
それは子どもの生にとっては
もっともエクスタティックな
瞬間のひとつだ。
彼は自分の肉体を楽しむ。
それは
わくわくするような体験だ。
だが、
すべてのわくわくする感じは
切り捨てられなければならないし、
すべての歓びは
打ち壊されなければならない。
それは神経症的だが、
社会は神経症的だ。
 
両親たちにも
彼らの両親から
同じことがなされた。
彼らは子どもたちに
同じことをやっている。
このようにして、
ひとつの世代が
次の世代をだめにしてゆく。
このようにして、
私たちは神経症
ひとつの世代から
次の世代へと伝えてゆく。
地球全体が
精神病院になっている。
誰もエクスタシーというものを
知らないように見える。
それは失われている。
障壁に次ぐ障壁が
つくりだされてきた。


Osho - Ecstasy: The Forgotten Language