読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

…「源泉への道」VIGAN BHAIRAV TANTRA by OSHO,

第5章「実在との対面」PP. 174---177,


(…略)
もっとも内奥の中心では、あなたは ただの意識だ。

想念は 雲のようなものだ。

想念は あなたにやってくる---だが あなたのものではない。

想念は すべて外側からやってくる。

内側で想念を創り出すのは 不可能だ。
想念とは、あなたに やってくる雲のようなものだ。
だから 考えているときには、あなたは 内にいない。

思考というのは、外にいるということだ。
たとえ、思考の対象が 内的なものであろうと、魂についてであろうと、自己についてであろうと、あなたは 内にいない。

 このような「自己」や、内的なものや、内側についての想念は、すべて 外からきたものだ。
あなたのものではない。

あなたのものであるのは、ただ単純な意識だ---雲ひとつない空のような意識だ。


 それでは どうしたらいいか。
どうやって内側にある この単純な意識を獲得するのか。

そこで 方便が使われる。

なぜなら直接的には なにもできないからだ。
なにか方便が必要だ---それによってあなたは 内側に投げ込まれる---意識へと投げ込まれる。

この「中心」に対しては 間接的な働きかけが必要だ。

直接的な働きかけは不可能だ。
ここが肝心な点だ。
これは ごく基本的なことだ。

 たとえば あなたがなにかをして遊ぶ。
それから 後になって、その大きな喜びを語る---「楽しかった。本当に幸せだった」。
微妙な 幸福感が後に残る。

誰かが それを聞く。
彼もまた 幸福を追い求めている---誰もがそうだ。
彼は言う。
「それならぜひ僕も遊ぼう。もし 遊びで幸福になれるなら、僕もぜひやってみよう」。

彼も また遊ぶ。
彼は 直接、幸福に喜びに向かっている。
だが 幸福は 副産物だ。

すっかり遊びに夢中になっているとき、結果として 幸福が生じる。

だが絶えず幸福を追い求めていたら なにも起こらない。
遊びが そのきっかけだ。


 あなたが 音楽を聴いている。
誰かが言う「これほどの至福はない」。

だが 絶えず直接に至福へと向かっていたら、聴くことさえできなくなる。
至福への 関心や執着が障害となる。
至福は 副産物だ。
直接 つかむことはできない。

あまりに繊細な現象だから、間接的に近づくしかない。
ほかのことをしていると、それが起こる。
直接には つかめない。


 美しいもの すべて、永遠なものすべて、それは あまりに繊細なため、直接つかもうとすると 壊れてしまう。

だからこそ 技法や方便があるのだ。

これらの技法は しきりになにかをせよ と言う。
その「すること」は 重要ではない。

結果として 生じるものこそが重要だ。

あなたのマインドに必要なのは、「すること」つまり技法に向かうことだ---結果ではない。
結果は 起こる、必ず起こる。

だが、いつも 間接的に起こる。

だから結果に向かわずに、技法に向かうのだ。
可能なかぎり トータルに向かい、結果のことは 忘れる。
それは起こる。
しかし あなたが その障害となりかねない。

 結果だけに向かったら、それは 起こらない。
そして ひどくおかしなことになる。

人々は 私のところへ来て言う、「お話によれば、瞑想すれば これこれが 起こるそうですが、瞑想しているにもかかわらず これこれは 一向に起きません」。

たしかに そのとおりだ。
だが、彼らは その条件を忘れている。
結果のことは 忘れるのだ。
そうして初めて それは起こる。


 大事なのは、全面的に その行為に入ることだ。

その行為の中に、全面的に 入れば入るほど、その結果は 早く起こる。
しかもそれは いつも間接的だ。

結果に対して 攻撃的であってはいけない。
暴力的であってはいけない。

それはごく繊細な現象なので、攻撃には耐えられない。

結果が現れるのは、あくまでも あなたが 別のことに没頭していて 内的空間が 空っぽになっているときだけだ。


これらの技法は すべて間接的だ。
精神的(スピリチュアル)な出来事について、直接的な技法はない。



f:id:saleem:20161231163758j:plain