「イエス & ノー」(OSHO 講話 : 抜粋)

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意識は
自由をもたらす。
自由とは、
正しい行為をする自由
だけではない。
自由の意味が
それだけのものだったなら、
それはどんな自由かね? 

正しい行為をする自由
しかなかったら、
それは自由ではない。
自由とは、
2つの選択肢があることを
意味する。
正しい行為をするという
選択肢、
そして
誤った行為をするという
選択肢だ。

自由が意味するのは、
「イエス」か「ノー」かを
選ぶ権利だ。
 

これから言うのは
微妙なことだが
理解しなければいけない。
「イエス」と言うときよりも、
「ノー」と言うときのほうが、
自由な感じがする。

哲学的なことを
言っているのではない。
これは、
あなたが自分の内側に観察できる
単純な事実だ。
「ノー」と言うときにはいつも、
自由な感じがする。
「イエス」と言うときにはいつも、
自由が失われた感じがする。

「イエス」とは、
自分が服従したこと、
身をまかせたことを
意味するからだ。
そこに
自由などあるだろうか。
「ノー」とは、
かたくなであること、
超然としていることを意味する。
「ノー」とは、
自分を主張していること、
自分には闘う準備があることを
意味する。
 

「イエス」と言うより
「ノー」と言ったほうが、
自分の輪郭がはっきりする。
「イエス」はあいまいで、
雲のようだ。
「ノー」は堅く、
岩のような存在感がある。

心理学者たちによれば、
子どもは
7歳から14歳にかけて、
「ノー」と言う回数を増やすのを
学んでいくそうだが、
その理由もここにある。
子どもは
「ノー」と 言うことで、
心理的に、
母親の子宮から離れるのだ。
「ノー」と
言わなくてもよいときでさえ、
「ノー」と言う。
「イエス」と言ったほうが
自分にとっていいときでさえ、
「ノー」と言う。 

子どもが
「ノー」と言う回数を増やすのは、
そうしなければならない
多くの理由があるからだ。
14歳で
性的に成熟するときまでに、
母親に対して決定的な
「ノー」を
言わなければならない。
そのときには
別の女性に
恋するようになるのだから。

それは男の子にとって、
母親に対して決定的な
「ノー」を言うことであり、
母親に背を向けることだ。

その子はこう言っている――
「あなたとは終わりだ。
 ぼくは自分の女を見つけた。
 ぼくは独立した個人になった。
 自分の人生を生きたいんだ。
 自分の好きなことがしたいんだ」
 

「髪を短く切りなさい」
と親が言うなら、
子どもは長髪にするだろう。
「髪を長く伸ばしなさい」
と親が言うなら、
子どもは短髪にするだろう。
長い目で見てみるといい。
ヒッピーが親になったら、
子どもが短髪になるのを
目にするだろう。
子どもは
「ノー」と言うことを
学ばなければならないのだから。
 

「清潔さは敬神につぐ美徳」
などと親が言うならば、
子どもは
ゴミにまみれて生活する。
子どもは不潔に暮らすだろう。
風呂に入らない、
身だしなみを整えない、
石鹸を使わない。
石鹸は肌に悪いとか、
不自然だとか、
動物は石鹸を使わないとか、
あれこれと理由をつけるだろう。
理由はいくらでも考えられる。

だが、
深いところを見るならば、
そうした理由は、
表面の覆いにすぎない。
ほんとうのところは、
「ノー」と言いたいのだ。
そして、
あたりまえのことながら、
「ノー」と言うには理由がいる。

だから、
「ノー」は、
自由の感触をもたらす。
それどころか、
自分は頭がいいという
感触さえもたらす。

「イエス」と言うのに
頭はいらない。
あなたが
「イエス」と答えるならば、
「どうして?」
と聞かれることはない。
「イエス」と言っているのに、
その理由をわざわざ
詮索しようとする人はいない。
すでに
「イエス」と言っているのだから、
理由づけや議論の余地はない。

あなたが「ノー」と答えるならば、
かならず
「どうして」
と聞かれることになる。
それであなたは頭が鍛えられる。
あなたには、
くっきりした輪郭と
スタイルが生まれ、
自由が備わる。
「ノー」の背後にある
心理を観察しなさい。

人間にとって、
調和してあることは難しい。
人間には意識があるからだ。
意識は自由をもたらし、
そして自由は
「ノー」と言う能力をもたらす。
そして、
「ノー」と言う機会は、
「イエス」と言う機会よりも多い。
だが、
「イエス」がなければ、
調和はない。
「イエス」とは調和だ。

だが、
「イエス」と言っても
自由でいられ、
「イエス」と言っても
独自でいられ、
「イエス」と言っても
奴隷になることのないほどにまで
成長し、
成熟するには時間がかかる。

「ノー」がもたらす自由は、
とても幼稚な自由だ。
7歳から14歳までの子どもには、
それもよいだろう。
だが、
そんな自由にとらわれて、
生涯にわたり
「ノー」を言いつづける人は、
成長するのをやめた人だ。
 
究極の成長とは、
子どもが
「ノー」というときと
同じ喜びをもって、
「イエス」と
言えるようになることだ。

これは第2の子ども時代だ。
そして、
途方もない自由と喜びをもって、
なんの代償も求めず、
無条件に、
ためらいなく
「イエス」と言える人、
純粋で単純な喜びをもって
純粋で単純な
「イエス」を言える人は、
賢者になったのだ。
その人は、
ふたたび
調和のなかで生きている。

そして
そのような人の調和は、
木々や動物や鳥たちの調和とは、
まったく次元の異なるものだ。

木々や動物や鳥たちが
調和のなかで生きるのは、
彼らには
「ノー」と言えないからだが、
賢者が調和のなかで生きるのは、
彼が
「ノー」と言わないからだ。

そしてこの両者のあいだ、
鳥たちとブッダとのあいだに、
成長しきらない
幼稚な人類全員がいて、
どこかで引っかかったまま、
いまだに
「ノー」と言うことで
何がし かの自由の感触を
得ようとしている。
 
「ノー」と言うことを
学んではならないと
言っているのではない。
「ノー」と言うべきときには
「ノー」と言うことを学びなさい、
だがそこで止まってはならないと、
私は言っている。

「イエス」とともに到来する
より高次の自由、
より大いなる調和へと、
ゆっくりと、
目を向けるようになりなさい。
そこには、
人の理解を超えるような
大いなる平和がある。

Osho - The Book Of Wisdom