saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

…信仰は借り物であり、信頼は その人自身の体験だ。 OSHO,

友人の FB投稿記事を転載します (確認済み)。



すでに結論を出していながら、
どうして
問いかけることができるだろう?

キリスト教徒でありながら
宗教的であることはできない。
あるいは
ヒンドゥー教徒でありながら
宗教的であることはできない。
ヒンドゥー教徒でありながら、
どうして
宗教的でいることができるだろう?
ヒンドゥー教徒であるということは、
すでに結論を出していて、
何が真理か
決めてしまっているということだ。

そうだとすれば
問いかけてみても仕方がない。
何を問いかけるというのだろう?
あなたがやるのは、
すでに結論付けていることがらの裏付け、
論証を探し出すことでしかない。
だが、
その結論は
間違っているかもしれない―
わかりはしない。
その結論は
あなたのものではなく、
社会から渡されたものだからだ。

社会はしきりに
あなたに結論を与えようとする。
あなたが自分で結論に到れるよう
意識を与えようとはしない。
あなたが意識的になる前に、
少しでも問いかけがはじまる前に、
社会はありとあらゆる結論を
詰め込んで、
何がなんでも
その問いかけを阻もうとする。
なぜなら、
その問いかけは
社会にとって危険だからだ。

問いかけない人間は扱いやすい。
問いかけない人間は従順だ。
すなおに命令や指令を受け取り、
それに従う。
彼は法を尊重し、
因習を守る。

ひとたび誰かの心に
わずかでも信仰を吹き込めば、
薬物を飲ませたことになる。
信仰は麻薬だ。
彼はいったん信じ込むと、
どこまでもしゃにむに信じてゆく。
やがて徐々に、
彼はその信仰が
自分自身の体験であると
思い込むようになってゆく。

信仰というのは
催眠のシステムだ。
あなたは子供に
「おまえはヒンドゥー教徒だ。
 おまえはヒンドゥー教徒だ」
とどんどん暗示をかけてゆく。
子供を寺に連れてゆき、
宗教的な、
いわゆる宗教的な
儀礼、儀式を体験させる。
やがて子供は条件付けられ、
自分はヒンドゥー教徒であり、
ヒンドゥー教はすべて正しく、
それ以外の宗教は
すべて間違っていると
思い込むようになる。

そして、
同じことが
あらゆる社会で行なわれている。
あなたがたは
子供たちに麻薬を与えてきた。
子供の意識のまさに源が
毒されてきた。

そしてもし
何かを信じたら、
それは
真実のように見えてくる。
もし何かを信じはじめたら、
その裏付けとなるもの、
それを助ける証拠となるものが
続々と見つかるようになる。

あなたのエゴがからんでくる。
真実かどうかだけでなく、
奥深くで問題になっているのは
「どちらが正しいのだろう?
 私だろうか君だろうか?
 私が間違っているはずがない―
 私が正しいにちがいない」
ということだ。

だからあなたは
自分を支えてくれるものばかりを
選び取る。
そして
生はひじょうに複雑であり、
そこでは
ありとあらゆるものを
見つけることができる―
あなたが選び取り、
決定したものは
何でも見つかる。

あなたが
悲観主義者であれば、
その悲観主義を裏付ける
ありとあらゆる論拠が
生のなかに見つかる。
あなたが
楽観主義者であれば、
ありとあらゆる論拠を
手にすることができる。

生は二元的であり、
生は逆説に満ちており、
生は多次元的だ。
この世に
これほど多くの哲学、
主義、神学が存在するのは
そのためだ。
そしてどの神学も
独自の結論の殻に閉じこもり、
自分が一番正しいと
信じている。

ようやく現代において
信奉者たちは
少しとまどうようになった。
これは大いなる祝福だ。
なぜなら、
彼らは他の信奉者たちの存在にも
気付きはじめたからだ。
今やヒンドゥー教徒
それほど得意になり、
自己満足してはいられない。
キリスト教徒の存在を
知っているからだ。
そしてキリスト教徒も、
自分たちだけが
真理の版権を手にしていると
信じ続けることはできない。
イスラム教徒もいるし、
道教徒もいるし、
仏教徒もいるということを
知っているからだ。
そして誰も当てにならない。
現代はひじょうに混乱している―
かつてなかったほど混乱している。

だが、
覚えておきなさい。
この混乱は大いなる祝福だ。
何かが途上にある。

何かとほうもなく重要なことが
起ころうとしている。
この精神の混沌(カオス)は
新しい夜明けのはじまりだ。

将来には、
人々は
イスラム教徒にも、
ヒンドゥー教徒にも、
仏教徒にもならないだろう。
人々は
問いかける者たちとなる。
信仰はなくなり、
信仰の闇は姿を消しつつある。
これからは誰も
信仰をもたなくなってゆく。
人々は問いかけ、
見いだしたときに
信頼するだろう。
信仰は借り物であり、
信頼はその人自身の体験だ。

私がここで
あなたがたに教えているのは、
この先、
ますます興隆してくる宗教だ。
私は現在のあなたがたに
未来をもち込んでいる。
私はあなたがたが純一な
探求者になるようにしむけている―
いかなる信仰体系ももたず、
何の結論も抱かずに、
みずから進んで実験を行なってゆき、
それが何であろうと
真実に心を開いて、
それを
受け容れてゆく用意のある探索者、
ひたすら真実を
受け容れてゆく用意のある者たちに。

Osho - The Secret Of Secrets