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友人の FB投稿記事(OSHO:講話抜粋)を 転載---確認済み

あなた方はみな乞食だ。
しかも別の乞食に向かって、
ないものねだりをしている。
そして
それが手に入らないと
悲しみ、涙を流し、
自分は愛を得ることはできないのだと
惨めになる。
愛は外に獲得するものではない。
愛は、
あなたの存在の内なる調べなのだ。
だから
誰もあなたに
愛をあげることはできないし、
外側から
獲得することはできない。
愛は
あなたの内側に生まれるものだ。
愛は内なる開花であり、
それは
内側で眠っているエネルギーから生まれ出る。
にもかかわらず私たちはみな、
愛を外側に探す。
私たちはみな、
それを恋人のなかに探そうとする。
それは完全に間違いであり、
徒労でしかない。
愛を自分自身の内に探しなさい。
しかしあなたには、
自分の内に愛があろうなどと
想像もできない。
なぜなら
あなたが学んできた愛は、
常に恋人を連想させるからだ。
その愛は常にあなたの外側にあり、
外側の誰かを連想することでしかない。
だから愛が自分の内側に
どのように生まれ得るものなのか、
想像もできない。
あなたの内なる愛のエネルギーは
眠ったままであり、
すでに自らの内にあるものを、
あなたは外に求めていることに気づかない。
ゆえに外に求めている限り、
内側を見ることはない。

実のところ、
それは決して探索されることはない。
でもあなたは愛が欲しいから、
他人の扉の前で手を差し出して乞い続ける。
全世界に存在する欲望はただ一つ、
それは愛だ。
そして全世界にある不平もただ一つ、
自分は愛をもらってはいないということだ。
そして
自分が愛をもらっていないのは、
相手の責任で
相手に落ち度があるからだといって
他人を責める。
妻は夫に言う、
「私のことなんか
 ちっとも考えてくれない」。
夫は妻に言う、
「俺の身にもなってみろ」。

素晴らしい劇作家で、
しかも詩人であった俳優が亡くなった。
彼の葬儀には、
大勢の人々が火葬場へ集まった。
私も彼の葬儀に出席していた。
そして彼が勤めていた
映画会社の重役も出席しており、
彼は短い弔辞を述べた。
重役は言った、

「 私がこの男を俳優にしたのです。
 彼を裏道から見つけ出して連れ出し、
 出世街道へ乗せたのは私です。
 映画で最初に彼に役を与えたのは私で、
 彼の処女作を出版したのも私でした。
 彼が世界的に有名になったのは、
 私のおかげなのです!」

彼はそれだけを述べた。
あなた方の何人かも
そこにいたかもしれない。
重役がこれだけ述べ終えると、
突然、
みなの前に横たわっていた遺体が
起き上がって言ったのだ! 

「 失礼ですが、
 これから埋葬されるのはあなたですか?
 それとも私でしょうか? 
 あなたは誰のことを話しているのですか?」

その重役は、
「私が」彼を有名にし、
「私が」彼の本を出版した。
「私が」映画で彼に役を与えた・・・
「私が」そうしたと言った。
この「私が」という騒音には、
遺体ですら耐え切れなかったようで、
遺体は起き上がって言ったのだ。
「 失礼ですが、一つ教えてください。
 この葬式で埋葬されるのはあなたですか? 
 それとも私ですか?・・・」
と。
そして人は常に、
この「私が」という
騒音を生み出し続けている。

あなたの中には
二つの声しかあり得ない。
つまり、
「私」という声でいっぱいの人の中には、
「愛」という声はない。
そして
「愛」という声に満ち溢れている人の中には、
「私」という声はない。
しかもその二つは、
決して同時には見つからない。
それは
闇と光が同時に存在するのと同じくらい
不可能なことだ。

同じように、
エゴと愛は共存できない。
エゴとは闇のようなものであり、
それは愛の不在だ。
あなたの内側には愛が欠如している。
だから内側で
「私」という声が鳴り響いているのだ。
この「私」という声を
強めて大きくしていけばいくほど、
内に愛を見出す可能性は
なくなっていく。
エゴが強くなればなるほど、
愛はますます存在しなくなっていく。
そしてエゴがすべてになるとき、
愛は完全に死ぬ。

あなたは言う。
これは「私」の服だ。
これは「私」の家だ。
これは「私」の地位だ。
これは「私」が寄付したものだ。
あれは「私」の援助によるものだ。
「私」は○○大学出身だ。
「私」の家柄は・・・、
「私」の経歴は・・・。
この「私」という周りに築かれた塔は、
決して愛を知ることはないだろう。
あなたの「私」がいかに強く、
どれほど根深いものであるかを
しっかり理解することだ。
またそれを毎日さらに強め、
さらに根深くさせようとしているかどうかを、
はっきり見極める必要がある。
そうしたものが必要で
さらに強めようとしているなら、
内側に愛が生まれる望みは
捨てることだ。

エゴから生まれる愛は、
完全に偽りだ。
だから私は
あなたの愛はすべて偽りだと言う。
なぜなら
それはエゴから生まれたものであり、
エゴの影だからだ。
そして、
良く聞きなさい、
エゴから生まれた愛は
憎しみよりも危険だ。
なぜなら
憎しみは明快で直接的で、単純だが、
偽りの顔を装った愛は
それとは違って見分けにくいからだ。

エゴから生じた愛によって
恋人から愛されているなら、
やがて
あなたは優しい手の代わりに、
鉄の鎖で繋がれているような感じが
してくるだろう。
釣りに行くと、
人々は釣り針に餌を付ける。
エゴが主人になっている人は、
他人を所有したがる。
釣り針に愛という餌を付け、
彼らをプスリと突き刺すのだ。
こうして愛という幻想のゆえに、
最終的には
実に多くの人が
傷みと苦しみに陥るはめになる。

地獄でさえ、
こんなに大勢の人々が苦しむことはない。
そしてこの愛という幻想のゆえに、
全世界が、
全人類が苦しんでいる。
しかしそれにもかかわらず、
あなたはエゴから出た愛は
偽りであることを未だに理解しない。
だから
こんな地獄が生まれてしまったのだ。

嫉妬は、
エゴを伴う愛の一つの形だ。
だから恋人たちほど
嫉妬する者はいないのだ。
エゴを伴う愛は、
他者を所有しようとする
陰謀であり策略だ。
ゆえに
「あなたを愛している」
と言う者ほど、
人を息苦しい思いにさせる者はいない。
こうした状況は、
エゴから生まれた愛から生じるものであり、
愛とエゴには何の関係もない。


Osho - インナー・ジャーニー