第18章 質問---「OSHO, 一般に・・・03

(…「理論は工夫に過ぎない」とは、あなたの身体に刺さった矢を引き抜く助けに過ぎないということだ。)


実際、理論は重要ではない。

我々は、多くの おかしな理論を作り出した。
が、ブッダや マハヴィーラ、彼らは言う。
「もし理論が、あなた自身の束縛を越えていくのに 役立つのなら、それで結構だ」と。

だから、理論に囚われないこと。
それが正しいかどうかに囚われないことだ。
論理的な議論に囚われないことだ。
それを使い、越えていくがいい。

なぜ、ボートに囚われるのか?
もしそれが、川を渡るのに 役立つのなら、それで 川を渡るがいい。

川を 渡ることが 大事なのだ。
ボートが 大事なのではない。
どんなボートでも 役に立つ。

そのせいで、ヒンドゥー教徒は、世界で唯一 寛容なマインドを培うことができた--- 唯一、寛容なマインドを。

キリスト教徒は 寛容ではあり得ない。
寛容でないものがあるのは必定だ。

イスラム教徒は 寛容ではあり得ない。
寛容でないものがあるのは必定だ。

それは 彼らの過ちではない。
彼らにとって、ボートが 重要だから そうなるのだ。
彼らは言う。
「このボートが あったからこそ、あなたは この川を渡れた」と。
他のボートは ボートではない。
それらは本物ではない。
向こう岸は、それほど重要ではない。
この岸に このボートがある ということが、とても重要なのだ。
「もし あなたが間違ったボートを選んでいたら、向こう岸に 渡れなかっただろう」と。

が、ヒンドゥーマインドは言う。
「どんなボートでもいい。
ボートは問題ではない」


理論とは ボートのことだ。

もし 向こう岸に渡る という目的を 正しく持っていたら、もしあなたの目が向こう岸に 定まっていたら、もしあなたのマインドが 瞑想的に 向こう岸を捉えていたら、どんなボートでも 構わない。

もし ボートがなければ、自分で泳げばいい!

人間 一人でも 渡れるなら、編隊を組んだボートは 必要ない。

もし風のあり方を知っていたら 泳ぐ必要もない。

ただ浮かんでいればいい。

もし風のあり方を知っていたら、ただ 川を渡るにふさわしい風を待っていればいい。

ふさわしい風が来れば、自分を捨てて、リラックスすればいい。
そうすれば、風があなたを 向こう岸に連れて行ってくれるだろう。

川を渡るのに、どのボートでなければ ということはない。
ボートがなくても、人は泳いで渡れる。

そして、もし その人が知恵ある人間なら、泳ぐことも無用だ。

それは、知性的には理解できない最後のことだ。


ヒンドゥー教徒曰く「もしあなたが 完全にリラックスしたら、この岸が 向こう岸なのだ」


…04へ 続く


「究極の錬金術 Ⅱ 」古代の奥義書 ウパニシャッドを語る  by OSHO,

(翻訳者) スワミ・ボーディ・イシュワラ
(発行所) 市民出版社