saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第18章 質問---「OSHO, 一般に・・・02

…(真理は手段だ。
そして自由が目的だ。)

ゆえに解脱(モクシャ)が あらゆるヒンドゥーの考え方の、ヒンドゥーの 最終的な目的だ--- 解脱(モクシャ)が。

真理は 人が自由になるのに 役立つ---
だから、真理を探求するがいい。

が、自由を獲得する という、より大いなる探求の 一部としてのみ真理を探求しなさい。

真理それ自体を 目的にしてはならない。

もし、真理それ自体を 探求の 最終的な対象にするなら、その探求は宗教的なものではない。
それは 哲学的なものになる。

それが、ギリシャマインドと、ヒンドゥーマインドの違いだ。

アリストテレスプラトン、また、ソクラテスにとってさえ、真理が 探求の目的だった---
が、どうやって真理を見い出だすのか。

その場合、論理が その方法になる。

が、ヒンドゥーマインドには、自由が探求の 目的だ。
が、その場合、どうやって自由を 見い出だすのだろう。

ヨーガが その方法になる。

もし人が 自由でありたければ、自己の束縛 すべてを落とさねばならない。

どうやって その鎖を断ち切るのか?
その鎖を断ち切るには 科学が必要だ。
その科学が ヨーガだ。

そうすると、あなたの探求は まったく別の軌道を取り始める。

なぜ、あなたは奴隷なのか?
なぜ、縛られた状態にあるのか?

なぜ、縛られた状態になってしまったのか?
なぜ、あなたは 苦しんでいるのか? なぜ?

この「なぜ」が アプローチの仕方 すべてを変えてしまう。

束縛は理解され、そして壊されねばならない。
そうすれば、あなたは 自由になる。


真理が探求の目的だとして、人間の この過ちは なぜだろう。

問題は、どうやって過ちを避けるかだ。
それが根本だ。

論理は その過ちを避けるのに 役立つ。

その場合、議論すること、哲学的に熟考することが その方法だ。
だからギリシャマインドは、ヨーガのようなものを 考えられなかった。


ヨーガは、根本的に 東洋のものだ。

ギリシャマインドは、論理を発達させた。
それがギリシャマインドの、世界の思想への貢献だ。
彼らは、そのクライマックスまで 論理を発達させた。

実のところ、この二千年の間、何も それに 加えられなかった。

論理は、アリストテレスにおいて ピークにまで達した。

一人の人間が、科学を 完成に至るまで 発達させたのは、滅多にないことだ。

アリストテレスは それを遂行した。
が、ヨーガという概念は なかった。


インドでは、ヨーガが 基本だ。
我々は 論理システムを発達させたが、それはただ 言葉を越えた真理を、言葉を越えた体験を 表現するためだ。

我々は、何かを表現するための手段として 論理を発達させたのであり、何かに到着するために 論理を発達させたのではない。

ギリシャの論理とは、真理に到達するためのプロセスだ。

ヒンドゥーの論理は、何か他のものを通して 真理が達成され、自由が達成される ということだ。

そして あなたが体験を得た時に、それを 表現するために、論理が必要とされる。

その区別を はっきりさせるために「ヒンドゥーマインドは宗教的であり、ギリシャマインドは哲学的だ」と 私は言う。

宗教的マインドとは、より実際的なのだ。


…略…


この話を ブッダは何度も話した。
この話で ブッダは何を言いたいのか?
ブッダは、我々は皆、死の際にいる と言いたいのだ--- 全員だ。

死の矢は、もうすでに あなた方を射抜いている。

あなたは 知っているかもしれない。
知らないかもしれない。
死の矢は、もうすでに あなた方を射抜いている。
その矢は 目に見えないかもしれない。
が、苦しみはそこにある。

その あなたの苦しみが、矢が あなたを射抜いていることを 示している。



だから「誰がこの世界を創造したのか?
なぜ自分が創られたのか?
人間には 一生しかないのか、それとも多くの生があるのか?
死んだ後も、私という存在は残るのか?」と 聞き続けてはならない。

ブッダは「後から聞くがいい。
まずは、苦しみになっている その矢を 私に引き抜かせなさい」と言う。

そして ブッダは 笑ってこう言った。
「後から、そういうことを聞いた人間に出会ったことが、私は 一度もない。
矢が抜かれてから聞くがいい」

これが ヨーガだ。

それは、あなたが置かれている状態に、より関心がある。
苦悩の中にある あなたの 本当の状態、そして、それを どうやって越えるか---
あなたの束縛、縛られた状態に、より関心がある。

それを どうやって越えるか、どうやって自由になるかに、関心がある。

だから 解脱(モクシャ)が目的--- 究極の目的、実際的な目的なのだ。
学説上のものではない。

我々インド人は、沢山の理論を提起してきたが、それは ただの工夫に過ぎない。
我々は、多くの理論を提起してきた--- 九つのシステム、そして 膨大なる文献。
最も豊穣な文献の数々。
が、理論は 工夫に過ぎない。

「理論は工夫に過ぎない」とは、あなたの身体に刺さった矢を 引き抜く助けに過ぎないということだ。


…03に 続く


「究極の錬金術 Ⅱ 」古代の奥義書 ウパニシャッドを語る  by OSHO,

(翻訳者) スワミ・ボーディ・イシュワラ
(発行所) 市民出版社