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第18章 質問---「OSHO, 一般に・・・01

…宗教は真理の探求であると信じられています。
でも、いつかの夜、あなたは『ギリシャマインド、科学的な傾向をもったマインドが真理を探求するのに対して、東洋マインド、宗教的マインドは、解脱(モクシャ)、自由を探求する』とおっしゃいました。
 でもあなたは『真理のみが人を解放する』とも、おっしゃっています。
あなたの言葉の矛盾について、わかりやすく説明していただけないでしょうか? 」



 哲学とは、真理の探求だ。

だが、宗教は そうではない。

宗教は 自由の探求--- 究極の 自由の探求だ。

その違いは何か?

真理を探求する時、その主眼は より知的なものであり、よりメンタルなものだ。

だが、あなたが自由を探求する時は、ただ単に 頭脳の問題ではなく、あなたの 存在全体の問題だ。

誰かが「真理」という言葉を 発すると、あなたの知性は 影響を受ける。

だが、あなたの感情は 影響を受けないままだ
あなたの身体は 影響されない。

真理とは、頭脳のためであるようだ。
が、どうして真理が あなたのつま先と 関わるだろう?

どうして真理が 骨と血と 関係あるだろう。

が「自由」という言葉を 発する時、それは あなたに 全面的に関わってくる。

あなたは、それと深く関わっている--- 全面的に!


それが 第一の違いだ。

宗教は 知的な現象ではない。
知性は 一部として 関わってはいるが、宗教においては、あなたの 全存在が 要求される。

一方、自由は、存在すべてのためにある。


第二に、人が 真理について 考え始めると、それはいつも 他のどこかで見い出だされるように見える。

あなたは ただの探求者であり、真理は、見い出だされる対象 としてどこか別の場所に存在する というようにだ。

だが自由を 探求すると、自由は どこか別の場所に 見い出だされる対象ではない。

自由を見い出だすには、自分を 変容しなければならない。
自由とは、束縛を解くことだからだ。

真理の場合は、どこかに 動かずにあるように思える。
何か 物のように。

自由は プロセスだ--- それは 生きている!

だから私は「宗教は根本的に、自由の探求---
究極の、全面的な 自由の探求だ」と 言うのだ。


私が、過去に何度も 何度も「真理は 人を自由にする」と言ったのは 本当だ。
そこに 矛盾は ない。



宗教の探求は、自由に対するものだ。

真理は、自由を獲得する 手段だ。

あなたが 真理に達すれば、それは あなたが 自由になるのに役立つ。

真理は あなたを自由にする。
だが、自由が その目的だ。

だから、本当は 違う定義の仕方を した方がいい。


人を自由にするのが 真理だ。
また、人を自由にしないなら、それは 真理ではない。

あくまでも、自由が 宗教の目的だ。

その主眼は、ただの 小さな違いではない。
それは 大変な違いだ。

マインドが 探求し始めると、真理を探求し始めると、アプローチ全体が変わるのが常だからだ。

あなたは それを 考え始め、議論し始める。
それを 知的に 捉え始める。

すると 哲学的努力になってしまう。


自由が その目的なら、それは 心理的なものだ。

真理は 意味あることだが、それは真理が 自由のための手段として使われる場合のみだ。

だから、宗教は 真理の探求に反対しない。

宗教は 自由のためのものだ。
真理は、人が自由になるのに役立つ。
だが その場合、真理は 二次的なものだ。
それは優先されるものではなく、根本ではない。



真理は手段だ。
そして、自由が 目的だ。


…02へ 続く


「究極の錬金術 Ⅱ 」古代の奥義書 ウパニシャッドを語る  by OSHO,

(翻訳者) スワミ・ボーディ・イシュワラ
(発行所) 市民出版社