質問--- OSHO, 「生は、生と死、善と悪、平和と暴力、やさしさと残酷さ、美しさと醜さという二律背反の内に存在する」とあなたはおっしゃいました。02

(…相反する二つの力が調和すると、あなたはそれらを越える。)


それは次のように 考えるといい。

時々あなたは、自分は健康だ と感じる。
それは バランスが取れていない状態だ。

また、時々あなたは、自分は病気だ と感じる。
それは、またしてもバランスが取れていない状態だ。

また、時々、あなたは 自分が健康でもなければ、病気でもないと 感じることがある

それが バランスの取れた状態だ。


自分が健康だと感じるのは、もう一方の極にある ということだ。
あなたは、これから病気になるだろう。

次のことを 覚えておきなさい。

いつであれ、自分は健康だと感じ始めたら、境界にあるのだということを--- あなたは病気になるだろう。


そうしたことは 毎日起こる。

が、あなたは 気づかない。

いつであれ、自分は幸せだ と思うと、その幸せは 終わる。

いつであれ 何かに気づけば、それはあなたが 気づいた事柄から遠くへ離れた という意味だ。

今度は、帰ってくるのだ。
バランスを 取り戻さなければならない。
また、そのバランスを取り戻すために、あなたは その反対へと動くことになる。



それは、ちょうど ナタ--- ロープの上を歩き、絶えず身体を左右に動かしながら バランスを取る 軽業師のようなものだ。

が、その軽業師が 余りに左に寄りすぎると、今度は、バランスを取るために右に寄らねばならないことを、監察したことがあるだろうか?

彼が もうこれ以上左に片寄れば 落ちてしまうと思った時、バランスを取るために、今度は右へ寄らなければならない。

我々は、皆 絶えずロープの上を歩いている 軽業師だ---
善から 悪、悪から善、健康から 病気へ、病気から健康へ---
絶えず動いている。


聖者とは、そのロープから降りた者だ。

今や彼は、左に動くことも 右に動くことにも、心を悩ませない。

彼は それらを越えた。

宗教とは 超越だ。


善のみが 留まることはあり得ない--- 善と悪の 両方が必要だ。
その 二律背反を通して存在がある。

それを理解し 悟ること、聖者はただ その二つの間で 自分のバランスを取る。

そこに 選択はない。

彼は、悪に対抗して善を選択してはいない---
バランスの 一部であるから、滅ぼすことはできないと知っている。


もしあなたが 悪に対抗して善を選ぶなら、遅かれ早かれ、善に対抗して 悪を選らばなければならなくなる。

というのも、あなたは 一つの方向へと動いた。
すると 今度は、別の方向へ動く必要がある。

ゆえに、聖人は常に 罪の方向へ進み、罪人は 常に聖人の方向へと進んでいる。

聖人には 罪の瞬間があり、罪人には 聖なる瞬間がある。

それぞれの聖人の中に、可能性として罪人がいる。

そして、いつであれ 余りに聖人であり過ぎると、今度は罪人が バランスをもたらすことになる。


ゆえに彼ら、知る者は「一日 二十四時間、聖人であることはできない。
休みを取るべきだ。
常に 聖人でありすぎる続けることは退屈で大変だ」と言う。

人は そういう状態から逃れざるを得ない。
そこで聖人には、聖人であることから逃れるための 独自のトリックがある。


あなたは ずっと罪人ではいられない。
それは難しい--- 不可能だ!
あなたはその境地から下落し、死ぬ。
その状態から どこかへ動かねばならない!

そこで 時々、罪人が こんな聖人的な行為をするのかと、聖人さえ そのような行為をするとは考えられないほどのことを、罪人がすることがある。

時に 罪人は 全く聖人のようになり、信じがたいほどだ。

だが、彼らは バランスを取っている。



宗教は 善悪---選択には関わりない。

宗教は 無選択の超越だ。

存在の この二律背反を悟り---賢者---二律背反を知る者は、ただ 選択することを捨てた。

その時、彼は決して 左へ動かず、右にも 動かない。

彼は 真ん中に留まる。


ブッダは それを マジヒム・ニカヤ--- 中道と言った。

ブッダは言う。
「私は選択しない。
 私はその中間に留まる--- ちょうど中間に」


…03へ 続く


「究極の錬金術 Ⅱ 」古代の奥義書 ウパニシャッドを語る by OSHO,

(翻訳者) スワミ・ボーディ・イシュワラ
(発行所) 市民出版社