質問--- OSHO, 「生は、生と死、善と悪、平和と暴力、やさしさと残酷さ、美しさと醜さという二律背反の内に存在する」とあなたはおっしゃいました。01

…そして、生の中に 相反するものがあるのは 避けられないことであり、それは当然なのでしょう。
それなら、私たちが 宗教で手に入れようとしているものは 何ですか?
また、精神の変容とは、何を意味しているのでしょうか?
 聖人たち、予言者たちは、精神的な社会を築こうとしてきました。
それらは、彼らが物事の自然なありさまを変えたいと欲したという意味ではないでしょうか?
そして、もし私たちが健全で、精神的な社会を築くことに成功した場合、残酷さや暴力、醜さなどの反対のものは、どういうことになるのでしょうか?



それは、最も重要な問題の 一つだ。

また、その問題について 多くの混乱がある。

そこで まずはじめに、宗教は 論理ではなく、道徳でもないことを、はっきり認識することだ。


道徳とは、悪いもの、悪、不道徳なこと--- 罪に対して 逆らう努力を続けることだ。

ゆえに、道徳は 悪に逆らう葛藤であり、闘いだ。


道徳は、不道徳が存在しない道徳的世界を作り出そうとしている。
だが、それは 不可能だ!

精々、世界を変えることができるだけで、社会のバランスは 同じままだ。

それは、自然の最も深い法則の 一つだ---
それは 二律背反として存在する。
一つを壊せば、その反対のものも また壊される。



この世界では、何ひとつ 悪いものもなければ、良いものもない。
罪人もいなければ、聖人もいない。
聖人は 罪人の反対するもの として存在する。

彼らは 相互依存の関係だ。

道徳的な努力で、善のみが存在する世界を作り出すことはない。
それは 叶えられない望みだ。
それは叶わずじまいだ。
その望みは 叶えられない。

というのも、根本的な法則を 否定しているのだから。
今や物理学者たちは「物質は、非物質があって 初めて存在する。
物質は、非物質に並行するかたちで、存在する」と言う。

自然とは バランスだ。
そのバランスを 否定はできない。

もし 一方の極だけを 強調し続けたら、実際には 二つのことが起こる。

一つは その一方の極を 強める--- そうすれば、もう一方の極もまた助長される--- あるいは、その両方を壊してしまうかのどちらかだ。

そうすれば、あなたが助長しようとしていたものもまた、壊されてしまう。

生はバランスだ。
ゆえに、道徳とは 実りのない努力だ。
私は「道徳的であってはいけない」と言うのではない。

そう思うのなら、あなたはまたしてもバランスを崩している。

だから、何であれ、ありのままでいることだ。



宗教というのは、まったく別の領域だ。

宗教は、悪い世界に反して、良い世界を 作り出そうとするのではない。

宗教は、バランスの取れた世界を創り出そうとする--- 何かに反するわけではない。

善と悪が バランスをとると、それらは相殺し合う。

一人の人間が 聖人でもなく罪人でもなければ、聖者になる。
それが バランスの取れた人間だ--- 罪人でもなければ、聖人でもない

ただ 深いバランス、相反する 二つの力が、その人の内側で調和している。

相反する 二つの力が調和すると、あなたは それらを越える。


…02へ つづく

「究極の錬金術 Ⅱ 」古代の奥義書 ウパニシャッドを語る by OSHO,

(翻訳者) スワミ・ボーディ・イシュワラ
(発行所) 市民出版社