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(講話)「自己礼拝」Worship of the Self, by OSHO, 13

(…その境地に達すれば、あなたは頭を下げられる。)


ブッダが、自分の過去生を 弟子たちに語ったことがある。
その一つの話の中で、彼は こう言っている。
「私は まったく無知だった」と。

ブッダ曰く
「私はまったく無知だった。その時に 覚者、光明を得た人が 私の村を通りかかった。
私は 彼の足に 触れに行った。
私は 彼の足に触れた。
がその時、突然 彼がしていることに気がついた。
彼は 頭を下げ、私の足に触れていた。
私は恐くなって 彼に こう言った、何をしているのか と。
触れるべきは自分で、本来そうあるべきなのに、何故 あなたが触れているのかと」


その 光明を得た人は、ゴータマ・ブッダに こう言った「あなたは、私が覚者だということで 私の足に触れている。そして私が あなたの足に触れているのは、あなたもまた 一人の覚者だからだ」と。

過去生におけるゴータマ・ブッダは こう言った。
「でも、私は どうということのない人間です。
無知な者です。
取るに足りない者です」

すると、その光明を得た人は 言った。
「それは あなたが、自分が何者なのかを 知らないからだ。
あなたは 自分が何者になるかを知らない。
あなたは 現存する覚者に 頭を下げ、私は未来の覚者に 頭を垂れている。
私は顕現した。
あなたは、いずれ 仏の境地(ブッダフッド)を 顕現するだろう。
それは 時間の問題だ」


光明を得た者が、未だ光明を得ていない者に 頭を下げることが、この経文の 秘密だ。

彼は 一つの頂きだった。
その彼が、無知なる者に 頭を下げている。
その時、彼の達した頂きから、無知なる状態に隠されている 別の頂きを見ることができた。

彼にとっては、その頂きは 隠されたものではない。

ゴータマ・ブッダが 光明を得るであろうことは、彼にとっては 他の物事と同じく はっきりしていた。


あなたが「我は “それ” なり」と 感じられる時 初めて、この平凡な存在に 頭を垂れることができる!

別の表現をすれば、神にならないかぎり、謙虚になれない ということ。
神にならないかぎり、純真無垢になれないということだ。



この経文では、その純真無垢が 表現されている。

我々は、神への敬礼については知っている。
神については 知っている。
礼拝については 知っている。

だが、この経文は とても難しい。
それは 考えられないことだ。

この経文は あなたを 神にし、この存在が 神であることを、敬礼のための 根本条件とする。


我々にとって 人間は、自分より優れた存在、高い存在に 敬礼する というのが常だ。

だが この経文は、あなたを 最も高い存在にする。
そしてそれが、礼拝のための 根本条件だ。

誰に礼拝する というのだろう。
あなたが 最高の存在だ。

そうなると、今度は 最も低いものに礼拝することになる。
より低い存在から より高い存在への礼拝は、ただ 当たり前のことだ。
そのなかに 何も取り上げるものはない。
それは 普通のマインド--- 政治的マインド、野心的マインドの働きだ。

が、あなたが 一番高い存在なのだ。


そうなると、マインドは言うだろう
「お前は誰に対しても 礼拝など必要ない。
今や、全存在が お前に敬礼すべきだ。
お前が 一番高い存在だ。
だから今度は、全存在が お前の所にやって来て敬礼する番だ。
いいかね、今度は全存在を、お前の足元に平伏させよう」と。
それがあなたの 感覚になる。

もしあなたが、この経文の説くことを そのままに信じるなら、もしあなたがこの経文に従うなら「今度は全世界を 私の所にやって来させ、私に頭を下げさせる」という感覚が あなたのものになる。

が、この経文は「それが、あなたが神に敬礼するための根本条件だ」と 言う。


頼める者が 誰もいない時、あなたのエゴは 空腹を感じる。

劣等感を感じる時、あなたは 頭を下げてくれる誰かが欲しい。

それは飢えだ--- 食物への飢えだ。

それは、あなたが まだマインドの 最初のステージに いることを表す「私は在る」の 段階だ。

このステージの下には、無がある。

そこで あなたが、この「私は在る」に入れるものは 何であれ、奈落へと 深く入っていく。

そして「私は在る」という状態は 常に からっぽのままだ。


…14へ 続く


「究極の錬金術 Ⅱ 」古代の奥義書 ウパニシャッドを語る by OSHO,

(翻訳者) スワミ・ボーディ・イシュワラ
(発行所) 市民出版社