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(講話)「自己礼拝」Worship of the Self, by OSHO, 12

(…あなたが 死につつある時、それは祈りだ。)

何故なら、死 という現象は、存在が あなたに与えた命を 取り上げる ということだからだ。

形の世界に現されたものが、今、形なきものへと 移行しつつある。

その時、あなたは その間にいない。
あなたは もはや存在しない。

あなたは ただのオープニングだ。
ただ、存在に対して 開かれた状態にある窓だ。

存在が、内へ外へと あなたを通して動いていく。
あなたは この 無という瞬間に どこにもいない。



人間は「アワム・ブラフマースミ--- 我は絶対なり。 我は “それ” なり」と言うことができる。

この宣言は エゴイスティックな主張ではない。

この宣言は 最もへりくだった主張なのだ---

だが とても逆説的に見える

生は あまりに複雑な現象なため、もし ごく単純な真理を言うのなら、逆説的であるべきだ。

もし難解に真理を言うならば、逆説的な必要はない。

あなたは、全く論理的になれる。

ごく単純な真理のみが、表現することが難しい。
事が理解されねばならない---

その真理が 単純であればあるほど、二元的なものではなくなるからだ。

それが まさに中心に至った時、あなたの声明は、あらゆる二元性を含意していなければならない。

それは 次のように考えるといい。

ウパニシャッド曰く「神は近くて遠い存在だ」

もしあなたが「神は 近くにのみ存在する」と 言えば、それは 誤りだ。

もしあなたが「神は 遠くにしかいない」と言えば、それも 誤りだ。

近くに存在するものは 遠くに存在し得るし、遠くに存在するものは 近くに存在し得るからだ。

あなたは動ける。すでに 動いている。

「神は どこにでもいる」という真理が、きわめて逆説的なあり方で 表現されねばならない。
「神は 最も近くて、最も遠い存在だ。
神は、最小にして最大だ。
神は 種であり、木だ。
神は 誕生であり、死だ」というように---



もし神が 生なら、誕生と死の 両方でなければならない。

では、どうして簡単に「神は生だ」と 言わないのだろう。

それは 我々のマインドでは、生は 死に対するものだからだ。

だから この単純な真理--- 神は生だ--- ということは、このようなあり方では言えない。

それは 逆説的なあり方で 表現されねばならない。
「神は誕生であり、死だ。神は その両方だ」と。

神は その両方であるがゆえにこそ、生だ。

神は 友であり、敵だ。
敵は 友に なり得るし、友は 敵に なり得る。
だから 神は 両方だ!

我々は、神に 友でいて欲しい と思う。
決して 敵であって欲しくはない。

だが、我々の好みは 真実のものではない。
本当は、好き嫌いが なくならないかぎり、真実に至ることはできない。

我々が真実に 至れないのは、自分たちの好き嫌いで選択し、その好みを 投影し続けているからだ。



この声明は、またしてもパラドックスだ。
その最初の部分は、「我は神なり、我は “それ” なりの感覚」という部分が 頂きだ。

二番目「それが神に対する敬礼だ」という部分が 谷だ。

この声明は 頂きと谷の両方だ。
最初の部分は、可能な限り 最もエゴイスティックな主張---「我は “それ” なり」だ。

そして次に、あらゆるものの 足元にひれふす言葉、「それが神に対する敬礼だ」

それらは両極端であり、正反対だ。
そして 多くを意味している。


もしあなたが、自分は 劣っていると感じていれば、あなたは 頭を下げる。
が、それは 敬礼ではない。

それはあなたの 劣等感の一部だ。


もしあなたが「私は優れている」と感じたら、頭を下げることはできない。
だとしたら、実際は、あなたは 優れてなどいない---
何故なら、頭を下げられない者は、死んでいる ということだからだ。
その彼が 優れているはずがない。

頭を下げられない者は、自分の 優越感への恐怖心が まだどこかにある。
もし私が あなたに頭を下げたら、優位でなくなってしまう という恐怖だ。

自分の優越感にくつろげる者は、頭を下げられる。

自分の劣等感を越える者だけが、頭を下げられる。

そしてそれが最も高い 頂きだ---「我は “それ” なり」--- その境地に達すれば、あなたは 頭を下げられる。


…13に 続く


「究極の錬金術 Ⅱ 」古代の奥義書 ウパニシャッドを語る by OSHO,

(翻訳者) スワミ・ボーディ・イシュワラ
(発行所) 市民出版社