(講話)「自己礼拝」Worship of the Self, by OSHO, 11

 ある本を 読んでいると、その中で、フランスの将軍が イギリスの将軍と話をしていた。
それは 第二次世界対戦後のことだ。

フランスの将軍は こう言った。
「我々は ずっと負けてばかりだった。
あなた方は負けを知らない。
どうしてですかな?」と。

するとイギリスの将軍は
「我々の祈りのせいですよ。
我々は、戦いに望む前には かならず祈っていた。
我々は 祈っていたんですよ!」と 言った。

するとフランスの将軍が こう言った。
「でも、我々も 祈っていましたよ」と。

そこでイギリスの将軍は「それは結構なことです。
しかし我々は 英語で祈っており、あなた方は フランス語で 祈っていた。
ところで、神が フランス語を知っている というアイディアは どこから仕入れてきたのですかな?
神はフランス語を 知っているはずがないでしょう」と言った。


それが、宗教的と言われるマインドが 傲慢になるあり方だ。


サンスクリットは「唯一 聖なる言葉」だ。

あなた方は、このイギリスの将軍の話を笑える。
だがあなたは、サンスクリットが 唯一聖なる言葉であり、ヴェーダが 唯一、神ご自身によって 書かれた教典だと思っている。

そのことが 笑えるかね?

あなたは こう思う。
コーラン? どうしてそんなものが 聖なることがあり得ようか?
神が アラビア語を知っているなどと、どこから仕入れた考えだ?
神は サンスクリット語しか知らないんだよ!」と。

そしてあなたは言う。
「神は いつも私の味方だ。
もし神が、私の味方ではないと言い張るのなら、神を変えられる。
それは いつも私の手の中にある」と。

その恐れゆえに「神はいつも私の味方でいてくれる。
彼は私の神だ。
彼は、私の言うことを聞くべきだ」と あなたは思う。


そういう態度が 作り出されるのは、あなたにとっては、全存在が神聖 というわけではないからだ。

もし全存在が 神聖なら、サンスクリットアラビア語だけでなく、石の言葉や 木々の言葉でさえ、理解できるはずだ。


それはもう、まったく言葉の問題ではない。
言葉は 関係ない。

大切なのは 祈りではない。

大切なのは 祈る心だ。

祈る心は、祈っているマインド(頭)とは まったく別ものだ。



この経文曰く
『それが唯一の敬礼だ。それが唯一のあり得る謙虚さだ』

だが、それは とても逆説的な あり方だ。

「我は神なり」--- それを 感得することが 敬礼だという。

我々は「あなたは神だ」と言いたい。
そうすれば、敬礼するのも簡単だろう。

だがこの経文「我は神なり。それが唯一の敬礼だ」と したら、誰に対して敬礼するのか ということになる。

実は 敬礼する必要はない。敬礼の必要はない!

それは 行為 ではない。

それは あなたがすべき 何かではない。

もし全存在が 神聖なら、あなたが 何をしようと 敬礼だ。


カビールは 光明を得た後も、自分の仕事を続けていたので、そのことを尋ねられた。

彼は 織工だった。
光明を得た後も、機を織り続けた。

彼の弟子たちは カビールに言った。
「何故、悟った後も 機を織り続けておられるのですか?
あなたは悟りを得られた。今や ブッダですよ。
なのに、どうして機を織り続けておられるのです?」と。

すると カビールは こう言った。
「機を織ることが、私が知っている唯一の祈りなんだ。
私は 機織りだった。だから 私が知っている 神への敬礼は、機を織ることだ」と。


すると誰かが カビールにこう言った。
「でも、ブッダが悟りを得られた時、彼は 全てを捨て去りました」

するとカビールは こう言った。
ブッダは 王様だった。
だから彼は、私が機を織ることしか 知らないように、王であることしか知らなかった。
機を織ることが私の祈りだ。
着物を 織っている時、私は神のために織っている」

また、カビールは 自分が織った着物を売りに、市場へ行った。
そこで、誰かが カビールに聞いた。
「でも、あなたは それらの着物を市場へ 売りに行くではありませんか。
あなたは 神のためだ と おっしゃったのに、何故 寺院に行って、神の御足に それらを供えないのですか?」

するとカビール
「私は それらを 神の御足に供えている。
だが 私の神たちは 市場で待っている。
私のラムが 待っている。
私は 生きている神 を信じている」と言った。


そういう態度なら、どんな礼拝も 必要ない。
もはや 礼拝は 必要ない。

というより、それは 生き方だ。


あなたの祈りは、ただあなたの 行為の 一部だ--- ただ多くの行為の中の 一つだ。

が、カビールのような人間にとって、神への礼拝は 一つの行為ではなく 生き方だ。

だからカビール
「私のすることは、何であれ 祈りだ」と言った。
それは あり得る。
が、そうなるには、全存在が 神でなければならない。

すると、あなたが 何を していようと、あなたが 何かを食べていたら、それが祈りだ。

その行為は 存在に参じるものだからだ。

そうした気持ちなら、食べているのは、あなた ではない。
存在が、あなたを通して 食べている。


歩いていようと、どこかへ行こうと、それは 祈りだ。

あなたを通して 存在がどこかへ行っているのであり、あなたを通して 存在が歩いているのだから。



あなたが 死につつある時、それは祈りだ。


…12に 続く


「究極の錬金術 Ⅱ 」古代の奥義書 ウパニシャッドを語る by OSHO,

(翻訳者) スワミ・ボーディ・イシュワラ
(発行所) 市民出版社