(講話)「自己礼拝」Worship of the Self, by OSHO, 08

この経文は 矛盾している。
一方で「あなたは それ だ」と 宣言しながら、もう一方では「それが敬礼だ」と言う。

もし それ が感じられ、はっきりわかるなら、頂きが 谷に対して敬礼する--- そうなると、もはや神以外 何も存在しないからだ。

その時、頂きは「それは 谷次第だ」ということを、はっきりと知る。

その時、光は 闇に敬礼し、生は 死に敬礼する。
何故なら、全てが相互依存の関係にあり、お互いに関係し合うからだ。

その悟りの頂きにおいて、人は 謙虚になる。

この「我は神なり」という宣言は、誰にも反対していないからだ。

この宣言は全てのためにある。

その時、私を通して、全てが その神性を宣言している。



アル・ヒラジが 殺された時、大勢の人間が そこにいた。

大勢の人間が、彼に 石を投げつけていた。
が、その時、彼は 笑っていた。
彼は 祈りの中にあった。
彼は 愛の中にあった。

その場に集まっていた群衆の中には スーフィーの行者がいた。

群衆の全員が アル・ヒラジに石を投げつけている中、そのスーフィーの行者は、群衆と 一つになるために、ただ、彼らに 自分は群衆の仲間ではないと思わせないようにするために、アル・ヒラジに 花を投げた。

彼には、石を投げることは できなかった。

そこで、彼は 群衆と一つになるために 花を投げた---
群衆の誰もが「彼は 俺たちと一緒だ、 俺たちの仲間だ」と 思った。


マンスールは 泣き出した。
そのスーフィーの投げた花が 彼に当たった時、マンスールは 泣き始めた。

そのスーフィーは 気になった。

スーフィーマンスールに近づき、こう聞いた。
「皆が石を投げつけている時には 君は笑い、彼らのために祈っていた。
私は君に 花を投げたのですよ!
なのに どうして泣いているんだ?」と。

するとマンスールは言った。
「あなたが投げた花は、群集が投げた石より もっと私を打った。
何故なら、あなたは知っているからだ。
この宣言は私事ではない。
あなた方のためのものだ。
それを あなたは知っている。
だから あなたが投げた花は、群集の投げた石より もっと私を打ちつけた。
彼らが投げた石は 花のようなものです。
石を投げた人々は、これが彼らのためだとは知らないからです。
もしマンスールが 神で あり得るなら・・・」

「それなら、あらゆる存在が神であり得る。
マンスールでさえ 神であり得るのなら、全てが神であり得る!」

「私を見なさい!
私は 誰でもない。
それでも自分は神だと宣言しているのです。
だとすれば、全てが神であり得るのです」と。


それは エゴからの宣言ではない。
エゴ無しの顕現からの 宣言だ。

人が「自分は 何でもない」と 感じ始めた時、初めて そう宣言できる境地に至る。
その時、その宣言は謙虚なものだ。
その時、その宣言は、可能な限り 最も謙虚なものだ。

それは神への敬礼--- 全存在への敬礼になる。

その時、全存在が神性を持つ。



神秘家は寺院を、モスクを、教会を 否定する。

それらが 無意味だからではなく、全宇宙が 一つの寺院になるからだ。

神秘家は 彫像を否定する。

それらが 無意味だからではなく、全存在が 神のイメージだからだ。
が、彼らの言葉を理解するのは 難しい。

彼らは、我々からは 反宗教的に見える--- 彫像を否定し、寺院を否定し、教会を否定し、教典を否定し、我々が 宗教的と信じている全てを 否定する。

それは 彼らが、全存在を 神だと 考えているからこそだ。


そして、もしあなたが 一つの部分を強調すれば、それは あなたが 全体を知らない ということだ。

もし私が「この寺院は神聖だ」と言ったら、全宇宙が 神聖ではない という意味になる。
もしこの寺院が、より大いなる寺院の 一部に過ぎなければ それはまた別の話だ。
が、もしこの寺院が 全体に反し、他の寺院に反しているとしたら---
他の寺院に反しているだけでなく、普通の家全てにまでも反しているのなら・・・もしこの寺院が「家は 神聖ではない。寺院だけが神聖だ」と 言うのなら、それは 全体を否定したことになる。



全体のために、神秘家は 部分を否定した。

だが 我々にとって、全体 というものは存在しない。
我々は 全体については 何も知らない。

我々は 部分が否定されてすら、不愉快に 感じる。

我々が知っている全ては、部分だ からだ。



もし誰かが「私には 寺院がない」と言えば、我々にとっては、その人が 宗教的ではないことを示すのに充分だ。

彼は
「全てが寺院なのだから、何か特別なものを 寺院にしてはならない。
ある特別な何かが神聖だ と言ってはならない。
全てが 神聖なのだから」と 言っているのかもしれない。

それが 神に対する敬礼だ。


我々もまた 礼拝する。
我々は寺院へ、モスクへ、頭を下げに行く。

我々は 頭を下げる。

だが、エゴは そのまま ある。

頭を下げるのは、身体の 動きとしてだけだ。

内側にある エゴは不動のままだ。
むしろ、エゴは 以前よりもっと直載なものになる。


…09に 続く


「究極の錬金術 Ⅱ 」古代の奥義書 ウパニシャッドを語る by OSHO,

(翻訳者) スワミ・ボーディ・イシュワラ
(発行所) 市民出版社