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(講話)「自己礼拝」Worship of the Self, by OSHO, 07

(…空を通して人は全体になる。
非存在を通して、人は実存の基盤そのものになる。
消え去ることで、人は全てになる。)


この経文は、三番目の状態の感覚だ。

人間が 完全に消滅すると、エゴは 消え去る。

そうなれば、アムネスでさえ もう限りあるものではない。

人は 根源そのものにまでやって来た。
ちょうど 踊りの 一ジェスチャーのように--- 踊りの 一身振りだ。

彼は 深く突き詰めた。
そして今、彼は ダンサーに達した。

今や、踊っている時の動きがダンサーであることを 表している。

それが、内側へ入る ということだ。

まず 自分の中に入るのだが、あなたは 宇宙と関係している。
故に 入り続けていくと、一歩 一歩 存在の中へと入っていく。

そのまま入り 続ければ、いつか 周辺から 中心へと至る。


風に揺れる 木の葉でさえ、それなりの個性がある。
もし木の葉が 内側へ 旅し始めると、早晩、木の葉は、木の葉自体を 越えていく。

そして木の葉は 枝の中に入っていく。


そうやって 内へ入り続けていけば、遅かれ早かれ、木の葉は 木の葉でなくなり、また 枝でもなくなり、木の葉は 木になる。

そして そのまま入り続けていくと、木の葉は木の葉でなくなる。

木の葉は 根になる。

なおも 内へ 入り続けていけば、木の葉は 存在になる。


木の葉は 根を越える。

だが 木の葉は、内側へ 入らないで、木の葉のままでもいられる。

すると木の葉は「私は在る」と考える。

それが 最初のステージだ。


もし木の葉が 内側へ入ったら、遅かれ早かれ「私は 木の葉ではない。それ以上のものだ。私は 枝だ」と わかるだろう。

その次に
「私は 枝ではなく、それ以上のものだ。
 私は 木だ」と わかる。

そして その次は
「私は 木でさえもない。
 まだ、それ以上のものだ。
 私は 根だ。 隠された根だ」と わかる。


内なる旅を 続けて行くと、さらに根から ジャンプするだろう--- すると、木の葉は 全存在になる。


それは 感覚であり、悟りだ。
それは より難しい部分だ。

エゴは 頭では「私は神だ。私は聖なる存在だ」と 宣言したい。


理知は、いつも高い存在、頂きであろうとする。

まさに そのエゴの 努力そのものが、至高なるものに なるためだ。



「我は神なり」と 公言することは、あなた に アピールし得る。
エゴに アピールし得る。

それ は こう言う。
「オーケー、 よし、俺は 神だ」と。

だが
この経文曰く「それが神に対する敬礼だ」
神への敬礼は、深く へりくだった態度であり、謙虚さだ。

それは 自分を 頂きに据える という態度ではない。

あなたが 敬礼できる者 が 存在しないからだ。


そのものが、アル・ヒラジが「私は神だ」と宣言した時に、イスラム教徒が 直面した問題だった。

彼は、自分を神だと 宣言した。

そこで、イスラム教徒は「それは 謙虚なあり方ではない--- それは自己中心的 在り方の最たるものだ!」と 思った。

だからアル・ヒラジを 殺した者たちは「自分たちは 信仰に基づき、まさに正しいことをしている」と 思っていた。

これは エゴの 最たるものだ!


…08へ 続く


「究極の錬金術 Ⅱ 」古代の奥義書 ウパニシャッドを語る by OSHO,

(翻訳者) スワミ・ボーディ・イシュワラ
(発行所) 市民出版社