(講話)「自己礼拝」Worship of the Self, by OSHO, 06

(…見者(リシ) 曰く「我は “それ” なり という感覚--- それが 神に対する敬礼だ」)


最も卑しい者が「自分は最も高貴な者である」と 感じないかぎり、この宇宙の中に くつろぐことはできない。

だが、それは宣言ではない。
それは 感覚だ。

あなたは「我は神なり」と 宣言できる。

だが、全く 深い感覚ではないかもしれない。

それはただ、エゴが 自分を主張しているだけなのかもしれない。
もし「我は神なり。他の誰も神ではない」と言うなら、あなたは その感覚を 感じていない。

「我は神なり」と 感覚として感じられたら、それは あなたの側の宣言ではない---
それは 全存在の側からの宣言だ。


見者曰く「我は神なり。我は “それ” なり」
見者は「全てが神、全てが “それ” だ」と言う。

彼とともに、全存在が宣言する。
ゆえに、それは個人的な宣言ではない。

アル・ヒラジが 殺されたのは、イスラム教徒が この言葉を 理解できなかったからだ。

彼が「私は神だ」と言った時、彼らは思った。
アル・ヒラジは「“私” は神だ」と 言っているのだと。

その言葉を 言っているのは、アル・ヒラジではなかった。

アル・ヒラジは、ただ全存在の一部となって声を発した。

アル・ヒラジを通して、全存在が「我は神だ」と 宣言していた。

アル・ヒラジは もういなかった--- 何故なら もしアル・ヒラジがいたら、その宣言は 個人的なものになるからだ。

それが 二番目の次元だ。



人間は 三つのカテゴリーの中に生きている。

一つは、自分が誰かを知らずに「私は在る」と言う 場合だ。
人類 全員が そのように生きている。
「私は 誰か」ということを知らずに「私は在る」と 思っている。


二番目の段階は、ある人が「自分というものはない」と知るに至った場合だ--- 意識の中に 深く入れば入るほど、あなたは その「在ること」について 深く考えるようになる。


意識の内を 掘り下げれば掘り下げるほど「自分 というものはない」と あなたは知る。

すると「私」という現象全体が 消え去る。

あなたは「私」を 見い出せない。

だから「私」を消す という問題は生じない。
単純に「私」が見い出せない。

それは あなたの意識の内にない。


もし何も 探求せずに生きていたら、あなたは「私は在る」と感じる。

が、探求し始めると
「自分 というものはない」と 知るに至るだろう。


「自分というものはない」と 知るに至れば、それが 二番目の段階だ。

最初、その人は「私は在る」という現象を 深く突き詰めていた。


そして今度は「自分というものはない」という現象を 突き詰めなければならない。

それは 最も骨が折れる。

最初は 難しい。とても 難しい。

二番目の段階に 至ることでさえ、長い道程だ。
多くの者が、第一のステージで 止まってしまう。

決して「私は 誰?」という問題を 突き詰めない。
ごくわずかな人だけが「私は在る」と言う 人間は誰か?
ということを知るために、深く 突き詰めていく。


そのわずかな中でも ごく少数が、再び 新しい旅に出る。
「自分 というものはない」とは どういうことか、「自分というものはない」という感覚とは何か を 知るために。

「自分というものはない」という感覚を 感じると しても、まだ「私」というものがいる。
だが その時はもはや「私は在る」とは 言えない。

あたかも そこには、深い空 という意識状態があるかのようだ。


ヒンドゥー教徒
「最初に “私は在る” という状態に至り、次に 単に “在る” という状態に至る」と言う。

私が落ちた、しかし私の 存在はそこにある。
たとえ、空っぽで無であっても、それでも まだ私は在る。

それを “am-ness” (「私」のない「在る」の状態 )と 言う。

最初を、彼らは アハンカール--- エゴ と言う。

二番目を アスミタ--- アムネス と言う。


もし誰かが アハンカール--- エゴの中に 深く入っていけば、その人は アスミタ---「私」のない「在る」の状態に至る。

そしてその人が、もう一度その アムネスの中に 深く入っていけば、今度は 神性に至る。

その時その人は言う、「我は “それ” なり。アワム・ブラフマースミ--- 我は 神なり」と。


空を通して 人は全体になる。

非存在を通して、人は 実存の基盤そのものになる。

消え去ることで、人は 全てになる。


…07に 続く


「究極の錬金術 Ⅱ 」古代の奥義書 ウパニシャッドを語る by OSHO,

(翻訳者) スワミ・ボーディ・イシュワラ
(発行所) 市民出版社