(講話)「自己礼拝」Worship of the Self, by OSHO, 05

(…今や 科学は「奥深くで、あらゆる存在が繋がっていて、一つになっている」と言う。)


もし 太陽がなければ、木は成長できない。

だが我々は、その片方のあり方しか わかっていない。
もし太陽がなくなれば 木は成長できず、花は咲けない ということはわかる。

ヒンドゥー教徒もまた「もし太陽がなくなれば、木は成長できない」と言う。
だが、また こうも言う。
「もし木が成長しなければ、太陽も存続できない。
存在は同時進行だ。
全てが繋がっている」と。


ジャイナ教徒は
「もし神がいるとしたら 人間は奴隷だ」と 言う。


イスラム教徒は
「もし人間が『我は神なり』と言うなら、神は退位して、奴隷が主の振りをする」と 言う。


ヒンドゥー教徒は「依存も独立もない。
存在は 相互依存だ。
だから 依存とか独立という考え方で話すのは、無意味だ」と 言う。

全存在が 互いに依存し合う 統一体だ。

高くもなく 低くもない。

高いものとは、あなた方が 低いと呼ぶものなくしてあり得ないからだ。

谷がなくて、どうして頂きが あり得るのか。

罪人なくして、どうして聖人が存在し得るだろう。

醜いと呼ぶものなくして、どうして美が 存在し得るだろう。
醜さなくして 美が存在しないのなら、美は 醜さに依存していることになる。

谷なくして 頂きが存在しなければ、頂きは高く、谷は低いという理由がどこにあろう。

ヒンドゥー教徒は「最も高いものが 最も低く、最も低いものが 最も高い」と言う。

「全存在が 深い相互依存というパターンに収まっているのであり、全ての宗教は 独りよがりだ」と言う。

宗教は、考え、分析し、理解するにはいい。
だが、根本的に人為的なものだ。

それは 最も飛距離のあるジャンプだ。



リシ(見者) 曰く
「我は “それ” なり という感覚--- それが神に対する敬礼だ」

最も卑しい者が「自分は最も高貴な者である」と感じないかぎり、この宇宙の中にくつろぐことはできない。

だが、それは 宣言ではない。
それは 感覚だ。

あなたは「我は神なり」と 宣言できる。
だが、全く 深い感覚ではないかもしれない。
それは ただ、エゴが 自分を主張しているだけなのかもしれない。

もし「我は神なり、他の誰も神ではない」と言うなら、あなたは その感覚を 感じていない。

「我は神なり」と 感覚として感じられたら、それは あなたの側の宣言ではない---
それは 全存在の側からの宣言だ。


見者曰く
「我は神なり。我は それ なり という感覚--- それが 神に対する敬礼だ」


…06に 続く


「究極の錬金術 Ⅱ 」古代の奥義書 ウパニシャッドを語る by OSHO,

(翻訳者) スワミ・ボーディ・イシュワラ
(発行所) 市民出版社