(講話)「自己礼拝」Worship of the Self : by OSHO, 02

(…イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒、彼らは こう言う。
「神はいる。人間はいる。だが、人間は被造物に過ぎない」)


人間は 神を礼拝し、近づくことはできる。
神に 近づけば近づくほど、人間は、神の光と喜びと エクスタシーで満たされる。

だが、人間は 神と一つにはなれない。

何故なら、もし人間が 神と一つになれるなら、はじめから、人間には 神と一つになる能力があった ということになるからだ。


種になるものが すでになければ、最初になければ、この世界では 何も起こり得ない。

木は、最初に 種の中にあったために成長する。


もしあなたが 神になれるとしたら、それは あなたが すでに神だった ということだ。

だから ユダヤ教徒キリスト教徒、イスラム教徒は言う。
「もしあなたが すでに神なら、進化は 無意味になる」
もしあなたが、種の状態で すでに神なら 本当の進化はないし、成長もしないことになる。

何をしようがしまいが、あなたは 神で あり続ける。


キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒 曰く
「人間は人間であり、神は神であって 初めて、宗教的成長が 可能だ。
あなたは 神に近づき、どんどん近づいていく。
その近づくことが 成長だ」

それは あなたの選択だ。
あなたは神に 近づかないかもしれない。
あるいは 神から 遠ざかるかもしれない--- それは あなたの自由だ。

が、ユダヤ教徒イスラム教徒、キリスト教徒は言う。
「もしあなたが すでに神なら、真の成長はない。
成長する という概念全体が ただの幻想であり、ただの 夢の中の成長に過ぎない。
あなたは必然的に神になる。
種の状態で、あなたは すでに神だったのだから。
そういうことなら、全てが ごまかしになる」

そこで彼らは言う。
「もし人間が 神と一つになれるのなら、進化という概念全体が無意味になる」と。



ヒンドゥー教徒は、それら 二つの考え方の ちょうど中間の立場を取る。

ヒンドゥー教徒は「人間は神である」というジャイナ教徒の考え方に同意し、キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒の「神は創造者として存在する」という考え方にも同意し、なおかつ 成長はある、進化はある と言う。

そればかりか、そうあって初めて成長が可能だ と言う。
だがヒンドゥー教徒にとって、成長とは 中にあったものが 広がるということだ。



種が 成長する。
その成長は 真実であり 本物だ。

種は 成長しないかもしれない。
また、永久に 種のままであるかもしれない。

内なる精神において成長する必要性はない。
だが種は、ある木になるために成長する。
その木は、種の中に すでに潜在性としてあるからだ。

人間は人間のままで いられる。

人間は、人間であることから下落して、動物にもなれる。

また、人間は 神という存在にまで成長もできる。

それが選択だ! それは自由だ!


だが「人間が神になり得る可能性」は、種 という形で、どこか奥深いところで、人間が すでに神であることを表している。

だから、人間が神になることは、中にあったものが広がるということだ。

隠されていたものが 現実のものになる。
潜在的にあったものが、現実のものになる。

ただの種に過ぎなかったものが 木になる、ということだ。



ヒンドゥー教徒の神は、イスラム教徒や キリスト教徒の神とは、ある意味で 全く違う。

ヒンドゥー教徒にとって、人間は 神になれる存在だからだ。

ヒンドゥー教徒は言う。
「もし人間が 神になれないなら、神に より近づいていくという考えはインチキだ--- 何故なら、もしあなたが 炎の中に飛び込めなければ、神の光に より近づくということは、一体どういうことだろう?
もし近づけないのなら、あなたと、神に近くない人間との差は どこにあるのだろう。
もしあなたが 神に近づける とするなら、倫理的な帰結からすると、あなたは さらにさらに、神に近づいていく。
そして究極的には、あなたは 神と一つになる」

もし人間が 神と一つにならなければ、そこには限界が、境界線がある。
その境界線、限界の向こうには、あなたと 神の間の隙間がある。

その隙間の存在は、我慢ならない。

もし橋渡しできない隙間があるのなら、全ての努力が無駄になる。


…03に 続く



「究極の錬金術 Ⅱ 」古代の奥義書 ウパニシャッドを語る by OSHO,

(翻訳者) スワミ・ボーディ・イシュワラ
(発行所) 市民出版社