(講話)「自己礼拝」Worship of the Self : by OSHO, 01

『我は “それ” なりという感覚、それが神に対する敬礼だ』



 存在は 一つだ。
というより、存在は 一体性だ。


アル・ヒラジ・マンスールは「我は 最愛なるものなり。
我は 神なり。
我は 世界を創造せし者なり」と 言ったせいで、生きたまま 皮を剥がされた。

イスラム社会は、その類の言葉を 全く知らなかった。

その言葉は、基本的には ヒンドゥーの言葉だ。

どこであれ、熟考する人は 二元性に至る。
神、創造者、そして、世界、創造されたもの。

ヒンドゥー教は「創造されたものが 創造者であり、そこに根本的な違いはない」という、最も大胆な飛躍をした。

イスラムにとって、あるいは他の 二元対立的な思想にとって、それは不敬のように見える。

もし 神と世界の間に、人間と神の間に 何の違いもないとするなら、二元対立を説く思想家にとって 宗教は あり得ない。
礼拝は あり得ないし、神に対する敬礼は あり得ないことになる。

もしあなたが 神ならば、礼拝する あなたは何者か?

もしあなたが 創造者なら、あなたより偉い者は 誰か?

となると、礼拝することは 不可能になる。


が、この経文は
「私は “それ” だという感覚、ソーアワム、それが 唯一の礼拝だ。
それが 唯一の敬礼だ」と 言う。

普通に考えると、この経文は 不合理で 矛盾している--- 何故なら、もしあなたより優れた力を持つ存在がいなければ、もしあなたが 最高の存在であるならば、誰に 敬礼するだろう?
誰に対して 敬意を払うのだろうか?


それが、マンスールが殺された理由だ。
それは 異端だ。
彼は 異端--- 無神論者と見なされた。


もしあなたが「自分は神だ」と 言えば、あなたは 神の存在を 否定したことになる。
すると、あなたが 至高者である ということになる。

二元対立的な 考え方からすると、それは エゴイスティックだ。

神と人間の区別は、守る必要がある。
あなたは 炎の近くへ、近くへと近づかねばならないが、炎そのものになってはならない。

聖なる根源と、密な関係に ならねばならない。
が、それと 一つになってはならない。

そこには 尊敬があるし、礼拝がある。
ゆえに、あなたは 神の御足にたどり着ける。
が、聖なる炎と 一つにはなれない。

創られたものが どうして創造者になれよう?

もし創られたものが 創造者になれるなら、創られたものは 全く創られていなかった ということになる。

それは 創造者がいない という意味になる。

それが 宗教思想の 一つのタイプ---
二元対立的な 考えだ。


それにはそれなりの 理由がある。
それは 凡庸なマインドには アピールする。

そこで実際、ヒンドゥー教徒として生まれた者でも、その人が「創造者と 一つである」という考えに至れない としたら、その人は ヒンドゥー教徒ではない。

ある人は、ヒンドゥー教徒として 生まれるかもしれない。

だが、ヒンドゥー教徒の 心のあり方、イスラム教徒の 心のあり方、キリスト教徒の 心のあり方に 根本的な違いはない。

それらは 我々の 根本的な心のあり方--- 我々が 学んだ態度であり、我々の 振る舞いからくる態度だ。

ヒンドゥー教徒は、実に深い不合理性を持つ。
ヒンドゥー教徒は「造られたものが 創造者になる」という、あり得ない飛躍をするからだ。



そして この経文曰く
「それが 唯一の敬礼だ」

もし神が あなたより高いところ、『そこ』にいるとするなら、あなたは 神より低いところ、『ここ』に 位置する。

もし あなたの中の 何かが、すでに神でなければ、神との繋がりは あり得ない。
そうであれば、あなたは 神と繋がりを持てない。

自分の中に すでに神と繋がるものがあって 初めて、神と繋がることができる。

でなければ、神と人間の間には、橋渡しができないほどの隙間がある。

神は 神のまま、あなたはただ、創られた者のままだ。


そのせいで、三番目のあり方--- ジャイナ教徒のあり方が 現れてきた。

彼らは 完全に 神の存在を否定する。
もし彼らが「神は創造者として存在する」と言えば、我々は ただの創られた存在に過ぎない。
我々は絶対、神になることはできない。

あなたが創ったものが、あなた自身になることはできない。
被造物は 被造物のままだ。

そして創造者には、常に創造したものを 破壊する力がある。
何故なら「創造者」とは、破壊する能力、破壊力をも意味するからだ。

もし神が 世界を創造したのなら、神は、まさにこの瞬間に 世界を壊せる ということだ。

神には、あなたの 存在への義務はない。
あなたは 神に「何故、我々を滅ぼすのですか?」と 聞くことはできない。

あなたは 神に対し「何故、世界を造ったのですか?」と 一度も 聞いたことがないのだから。

だから まさにこの瞬間、神の心の気紛れで、世界は 滅ぼされるかもしれない。

世界に存在する 尊い人々、罪人たちとともに、世界はまさにこの瞬間、滅ぼされる。


だから、ジャイナ教徒は「もし神がいるなら、人間に 魂はない」と言う。

もし そうなら、人間は 一個の魂ではなく、ただの 被造物に過ぎない。

すると、人間には 自由が存在しないことになるからだ。
もし神が創造者なら、人間に 自由はない。

そして 全てが無意味になる。

あなたが 善人だろうが 悪人だろうが、意味がない。
神は 絶対者のままだ。

神は 何でもできる。
神は 全てを破壊させられる。

そして神には、あなた という存在への責任は 何もない。


たとえば、あなたが 機械の仕掛けを 造ったなら、それを 壊すことができる。

機械として造られたものへの責任はない。

画家は 絵を描き、彼は その絵を破ることができる。
その絵には「あなたは私を 破ることはできない」とは 言えない。

というように、もし 神が創造者で、人間が ただの被造物なら、どうして被造物が成長して 神になれるだろう?

それは 不可能だ。


そこでジャイナ教は「神は いない」と 言う。
そうであって初めて、人間は 神になり得る。

何故なら、その時 初めて、人間は自由になるからだ。

神がいたら 我々は奴隷だ。

神が いなければ 我々は自由だ。



ニーチェは 自分より以前に、マハヴィーラが「今や 神は死んだ。人間は自由だ」と語っていたことを知らずに、そう言った。

マハヴィーラにとっても、同じことが問題だった。

もし 神がいるなら、人間は自由ではない。
神の存在は 人間にとって束縛だ。
神の非在は 人間にとっての自由だ。

そこでマハヴィーラは「神はいない。
そして初めて、あなたは 神になれる」と 言った。



イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒、彼らは こう言う。
「神は いる。人間は いる。
だが、人間は被造物に過ぎない」


…02へ 続く


「究極の錬金術 Ⅱ 」古代の奥義書 ウパニシャッドを語る by OSHO,

(翻訳者) スワミ・ボーディ・イシュワラ
(発行所) 市民出版社