saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

質問・・・「OSHO, 昨夜 あなたは 内なる静寂という次元から来る内なる静けさについて、話して下さいました。 今度は、別の次元から来る内なる静けさについて話してくださいませんか?」07

(…誰もが エゴの信者だ。)


人々は聞く。
「どこに 神がいるんだ。
神を見つけない限り、俺たちは 神を信じない」と。

そういう人達でさえ、エゴが存在するかどうかを 探求せずに、エゴを信じ続ける。
それは奇跡だ。

我々は 神を疑うことはできる。
が、自分自身を 疑うことはできない。

そして我々が 自分自身を 疑わない限り、静けさの中に 進んでいくことはできない。

自分自身を疑うことで、全てが破壊される。

宗教的な人間は、自分自身を疑うこと、自分自身を疑うことで 誕生する。


我々は、エゴが存在することを 当然だとしている。

我々は、エゴが存在するのか しないのか、それについて 一度も 問いを発したことがない。

もし誰かが 我々に「エゴは 存在しない」と 気づかせるなら、その人は 敵だ。

友とは、我々のエゴを、より強力にするのを助ける者のことだ。

我々の家族、我々の社会、我々の国家、それらは皆、我々が エゴに根付くのを助ける。

宗教は あなたを引き下げる。
あなたは 台座から 引き降ろされる。
あなた というものは存在しない。

もし、あなたが存在しなければ、あなたは静寂の---
底無しの、無限の 深い奈落にあるだろう。


その “私” が 邪魔者だ。

その “私” が 病気だ。

その “私” が 厄介者だ。

それが 問題だ。



丹霞が ある村に滞在していた。
そこへ ある者がやって来て、聞いた。
「私を 助けてください!
私に 教えてください!
私を 導いてください!
自由に なりたいのです!
解脱を 得たいのです!」

すると丹霞は 彼にこう言った。
「わしには お前さんを自由にできんが、お前さんの “私” を 消し去ってしまうことはできる。
しかし、お前さんを自由にすることはできん」と。

“私” というものに 自由はない。

そこには ただ、自由があるばかりだ。

それは “私” からの自由だ。

“私” というものにとって、解脱はない。

“私” というものに 開放はない。

ただ、開放そのものがある。

それは “私” にとっての自由ではなく、“私” からの自由だ。

それでは、あなたに 何ができる?



どんな偏見もなしに、それを良く考えてみるといい。


時間がある時は いつでも、ただ目を閉じて 内側に入りなさい。

そして、どこに自分がいるのかを 探しなさい。

そうすれば すぐに、自分は 離れ小島としてあるのではなく、存在の 一部としてある という事実に 行き当たるだろう。

誰ひとり、離れ小島ではない。

我々は、果てしない大陸の 一部だ。

そして その “私” というのは、人間が 離れ小島として存在する、 誤った観念を与える。
そして、そこから全ての トラブルが生じる。

“私” というものは トラブルメーカーだ。

全ての暴力、戦争、犯罪、あらゆる狂気が、その “私” によって生み出される。


我々は “私” に 固執し続ける。
その固執を 止めることだ。
あなたは あなた自身の “私” から、根こそぎにされなければならない。

それをできるのは、あなた以外に誰もいない。


ヨーガの実践も 役に立たないだろう。
もしあなたが その “私” を 探求せずに ヨーガを実践していても、それがどんなものであろうと、それによって “私” が 助長されることになるからだ。



もし あなたが 瞑想したら、その “私” は「私は瞑想している」と 言うだろう。

もしあなたが 世間を放棄すれば、その “私” は「私は世間を捨てた」と言うだろう。

もしあなたが サニヤシンになるとすれば、その “私” は
「私はサニヤシンになった。
私はこれを達成した。
私は あれを達成した」と言うだろう。

この世においてか、あるいは あの世か、その “私” というものは、あなたの努力で どんどん助長されていくだろう。

だから大変な苦行を 実践した人は、より微妙なあり方で、エゴイストになる。

その人は 大きな島、大きな大陸の 一部になるよりも、ますます 一人の “私” というものになる。

彼は エゴの絶頂点になる。

それは 全ての人に 起こり得る。

その “私” というものの食物になるのは、富や地位、世間的なものや、所有物だけではない。

その “私” は、全てを 自分の食物に変えてしまう。



そこで、スピリチュアリティの道に 入る前に、ブッダの助言を、常に 心に留めておくことだ。

ブッダ曰く
「あなたが 道に入る前に、まず その “私” が 存在するか しないかを 見極めなさい。
そうして初めて、あなたの道が スピリチュアルなものになる。
さもないと、それが どんな道であろうが、結局は世俗的なものになる。
その “私” が、その道を “私” のために利用するからだ 」


…08に 続く


「究極の錬金術 Ⅱ」ウパニシャッドを語る
(講話) OSHO

(翻訳) スワミ・ボーディ・イシュワラ
(発行) 市民出版社