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質問・・・「OSHO, 昨夜 あなたは 内なる静寂という次元から来る内なる静けさについて、話して下さいました。 今度は、別の次元から来る内なる静けさについて話してくださいませんか?」05

(…あなたが それをしなければならない!
考えることでは、役に立たない。)


あなたが ベッドの上に横になっている とする。
ちょうど 眠ろうとしているところだ。

その時、ベッドの上で 横になっている状態を 感じる。
そのベッドの 感触を感じなさい。

ベッドシーツの 感触、周りの音、往来の音、そこで起こっている 全てを感じる。

それを 感じなさい。

そこ に いるのだ。

考えるのではなく、ただ 感じなさい。
現在 という瞬間の中にいなさい。

そして、その感覚を抱いた状態で 眠りに落ちるがいい。

その夜、あなたは いつもより夢を見ないだろう。
いつもより 深い眠りに落ちるだろう。

朝、いつもより フレッシュな感じで目覚めるだろう。


朝、最初にあなたが「目が覚めた」と 感じた時、ただベッドから 飛び起きてはいけない。
五分間、そこにいなさい。

再び シーツの感じ、その温かさ、冷たさ、あるいは 屋根をつたう雨、再び 動き始めた往来、あるいは、目覚めた世界、その雑音、鳥たちの歌--- 五分間、感じなさい。

朝 起きてすぐ、慌ただしく 一日を はじめてはならない。

朝と共に在りなさい。

…略…

だから五分間、そこにいること。
そんなに急がないように。急ぐことはない。

そうしたら、その五分間は 瞑想的なものになるだろう。

朝と夜の その瞬間は、最高の瞬間だ。
その時間に、今の 瞬間を感じることは とても簡単だ。
ちょうど眠りに落ちるその瞬間は、とてもたやすく感じられる瞬間だ。

周りの全てに 敏感であることだ。

考えないように、感じるのだ。

感覚は 常に現在の中にあり、考えることは、決して現在の中にはない。

朝、夜の眠りの後で、マインドが フレッシュな時、身体が リラックスしている時、そして、まだ仕事に取りかかるエネルギーがない時、その間の 五分間を感じなさい。

そうしたら 起き上がるがいい。
だが、油断なく ベッドから起き上がること。

一挙手一投足、意識に満ちてすることだ。
朝、それをするのは とても楽だ。

昼になれば、それほど楽にはいかない。
夜 そうすることは、朝よりも 難しくなる。

風呂に行き、シャワーを浴びる。
その時、感じなさい。
身体に シャワーの水が 降り注ぐのを 感じるがいい。
身体に降り注ぐ水の 一滴一滴を 感じなさい。

他のことは、全て忘れてしまいなさい。
ただ そのシャワーの下にいて、今の瞬間を 感じなさい。

そうすれば、朝のシャワーでさえも、深い瞑想になる
水が 身体にかかる時、あなたは 自然との 深いコミュニオンを持てる。
二、 三分、その場に いなさい。
そうして その感覚を持続しようとする。

あなたが 朝食を食べている。
あるいは、食事をしている。
その時、その感覚を 持続しようとする。
それは ますます難しくなるだろう。

だが、その感覚を持続しようと、し続けなさい。
すると ほどなく、一日を通して、今の瞬間 へと移行できる時が、今の瞬間に留まれる時が 訪れるだろう。

一度 それが起これば、あなたは 静かである ということが どういうことかを知る。

それが 二番目の次元だ。


また、三番目の次元もある。
それを知るのはいいことだ。

一つは、音に対するものとして「静寂」が ある。
それが 一つの次元、無音だ。

二番目は 動に対するもので「静」がある。
それは 動きなし、不動だ。

そして三番目は エゴに対するもので「存在なし」ということ--- 無我だ。

三番目が 最も深い。

ブッダ曰く
「あなたが 在ることが止まなければ、静かであることはできない。
あなた が 問題だ。
あなた が 雑音だ。
あなた が 動きだ。
だから、あなたが在ることが 完全に止まない限り、完全なる静は 達成できない」


それゆえに、ブッダは アナットマワディ--- 無自己を信ずる者、として知られている。

我々は、自分は 在る、「“私”は 在る」と 思い続けている。

この “私” は 全く インチキだ。

この “私” ゆえに、沢山の病気が生み出された。

その “私” ゆえに、あなたは過去を 蓄積し続けている。

この “私” ゆえに、あなたは 過去に経験した喜びを繰り返すことを 考え続けている。

他の全てが、この “私” に ぶら下がっている--- 過去、未来、欲望。



ブッダは 深い瞑想を通して「この世の欲望は 捨てることができる」と 知るに至った。
だが、もし その “私” が 残っていたら、それは 解脱--- 究極の自由、神と一つである自由、ブラフマンと一つである自由を 欲し始める。

もし その “私” が 残っていたら、それ が どの方向を向いていようと、対象が何であろうと、そこには欲望がある。



ブッダ曰く
「この “私” に 中心を置いた存在 を 落としなさい」

だが、どうやって落とせばいいのだろうか?
誰が それを 落とすのか?

もし 私 というものが なければ、誰が それを 落とすというのか?
誰が それを 落とそうと考えるのか?

「落とす」という言葉が意味しているのは、内へ入り、その “私” を 見い出すこと、“私” を 探し出すこと、“私” が どこにあるか、それが 存在するか しないかを見ることだ--- 内へ入った者、“私” を 探索した者は、決して それを見い出せなかった。

“私” を 見い出した者は、一度も内側へ 入ったことがない者、一度も 探求したことがない者、内側に “私” があることを 信じている者だけだ。

未だかつて、誰ひとりとして “私” というものが存在することを 見い出した者はいない。

私が「私は在る」という時、「在る」が 実在であって、“私” ではない。

内側に入ると、あなたは「在ること」を 感じる。
ある種の 実在感が そこにある。

そこに 何かがある ということがわかる。
だが、それは あなたではない。

そこに “私” という感覚はない。
ただ 漠然とした「在ること」が 感じられるだけだ。
存在が、“私” というものなしで 感じられる。



三番目の次元に入る もう一つは、いつであれ、あなたに時間がある時、いつでもいい、その “私” というものが、どこにあるかを 見い出そうとすることだ。

寺院に行く必要などない。

もし行くなら、それでもいい。
が、必要はない。

あなたが 列車に乗って旅をしているとしよう。
そのような時に 目を閉じ、この “私” というものが どこにあるのかを 見い出そうとする。

肉体の中? マインドの中?
“私” はどこにあるのか?

開かれたマインドで 入っていきなさい。


…06に 続く


「究極の錬金術 Ⅱ」古代の奥義書 ウパニシャッドを語る
(講話) OSHO

(翻訳) スワミ・ボーディ・イシュワラ
(発行) 市民出版社