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「新瞑想法入門」「まえがき」02

(…これを実証するために、ちょっとした実験をしてみましょう。)


しばらく本を置いて、目を閉じてごらんなさい。

自分が どれくらいのあいだ、ただ坐り、肉体の感覚や、周囲の音を 楽しめるか、見てごらんなさい。

マインドが ぺちゃくちゃ喋りはじめるまでの時間は、それほど長くはなさそうです・・・せいぜい 一分くらいのものでしょう。

しばらく坐って、そのお喋りに 注意すれば あなたは驚くでしょう。

あなたは、自分が 多くの異なった、つじつまの合わない 内心の会話をしていることに 気がつくでしょう。

もし誰か 他の人が その会話を聞けば、狂っていると 思うでしょう。

この たえまない お喋りが、人生の各瞬間が用意しているものを楽しませず、文字通り、私たちから 生を剥奪してしまうのです。

人生の貴重な瞬間から 私たちを切り離し、奪い取ってしまう、この どうしようもないお喋りを どうすればいいのでしょう。

私は、師が 何度も繰り返して 瞑想するように と言うのを聞きました。

マインドのお喋りを 直接止めることはできないが、瞑想によって そのお喋りが静まり、ついには 消え失せる、と言うのを聞いたことがあります。


 瞑想すれば、マインドは たえまないお喋りで私たちを隷属化させることを止め、逆に 有益な道具になってくれます。

けれども、私たちは しばしば、概して今日の生き方からみれば理解しがたく、適切さを欠く、数限りない瞑想技法の洪水によって 混乱させられています。

和尚は これらの技法から 偽物と本物を選り分け、その核そのものへ貫通させ、想像を超えた 宇宙への扉を開ける鍵を与えてくれています。

そのマスターキーこそ、〈観照〉すなわち 目撃することなのです。

それは 自分自身を あるがままに見て、受け入れるという、単純だけれども深遠な境地です。

和尚は 言います。

「観照とは、何ものにも とらわれない、超然とした、偏見のない観察 という意味にほかならない。
それが瞑想の 秘密の核心だ」

 それは あまりにも単純すぎて、かえって何年にもわたって 見のがしつづけてきたのでしょう。

私たちは みな、「見守る」とは何かを 知っていると思い込んでいます。

私たちは、一日中 自分のまわりを見ています。

たとえば、私たちは テレビを見ています。
あるいは、他人が 通るのを見ながら、何を着ているか、外見はどうか などは見守りますが、ふつう、自分自身を見守ることは ありません。

たまに自分を 見るときがあっても、それは たいてい自意識の批評を通して行われます。

自分の 嫌いなところに 気づき、他人が どう思うか 気になりはじめるのです。

通常、この内心のお喋りは 自分をみじめにさせるだけです。

これは 観照ではありません。


和尚は私たちに こう注意をうながします。

「何ひとつ 為される必要はない。
ただ マインドの動きを見ている目撃者、観察者、観照者でありなさい。
マインドのなかでは、思考、欲望、記憶、夢、空想などが 通り過ぎてゆく。
判断を下さず、非難せず、『これは良い』とか『これは悪い』とか言うこともなく、ただ眺め、見守り、超然と立ち、冷静でありなさい」

      • 以下 略---

スワミ・デヴァ・ワドゥド


MEDITATION
THE FIRST AND LAST FREEDOM by OSHO,
「新瞑想法入門」
(翻訳) スワミ・デヴァ・マジュヌ
(発行) 瞑想社
(発売) (株) めるくまーる