saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「新瞑想法入門」まえがきより抜粋、01

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 まえがき


 光明を得た師、
和尚 (オショー・ラジニーシ)は、人類の自由と瞑想のために 世界規模の反逆を巻き起こしています。

これは奇妙な選択だと思われるかもしれませんね。

自由と瞑想とは どうかかわり合っているのでしょう?

けれども、この二つのあいだに存在する微妙な関係こそ、人類の未来における 潜在的可能性を理解するための重大なポイントであり、愛、親密性、創造性、発展などの能力を開く扉こそが〈瞑想〉なのです。

そして、和尚(OSHO)によれば、その他の扉、その他の道はないのです。


 過去 三十有余年以上にわたって、和尚は 世界の偉大な宗教的、神秘的、秘教的伝承の多くを解読してきて、その講話は 不朽の三百五十巻以上の書物の中に収められています。

そのなかで、彼は、今日の生活様式にそって わかりやすく、筋道をたてて、古今東西の 無数の神秘家たちの英知を よみがえらさせています。

この本は、瞑想に対する 和尚の深い働きかけのなかから編纂されたものです。

そこには、彼が「瞑想---最初で最後の自由」と呼ぶものを発見する助けとなりうる、広範で様々な技法が含まれています。

師は こう言います。

「瞑想とは、新しいものではない。
人は、それとともに この世界に生まれてきた。
思考(マインド)は あとから付け足されたものだが、瞑想は 自己の本性だ。
それは あなたの本性、あなたの 存在そのものだ。
それが、どうして むずかしいことがありえよう」


 私たちは、自分の 自由を妨害するものを 想定し、それと闘い、あるいは 自分に自由を与えるものを想定し、それを追い求めることによって、事をむずかしくしてしまうのです。

実際のところ、、ただ あるがままの自分に くつろぎ、一瞬一瞬の〈生〉を生きることによって、それは発見されるものなのです。


 世界中で、人びとは 何か から 自由になるために闘っています。

その闘いは、たとえば 小言を言う妻、支配的な 夫、横暴な 両親、あるいは 創造性をだいなしにしてしまっている 職場の上司に対するものかもしれません。

そういう私自身も、これまでの闘いは、抑圧的な政治制度に対する闘いか、あるいは 多くの心理療法によって 子供時代の条件づけから 自分自身を解放するための努力でした。

けれども、そういった闘いは 私を自由には しませんでした。

それは、たんに私を自由にさせてくれないと思うものに対する 反動にすぎませんでした。


 瞑想における自由とは、何かに対する自由を 見い出すための探究ではありません。

どれほど多くの人びとが、ただ くつろぎ、自分自身であり、日常生活の競争と 緊張から解放してくれる状況や理想郷にいる という夢を持っていることでしょう。

私の さまざまな経験は、私たちの求めている自由が 外側のものに依存しているのではないことを 示しています


 それなら、私たちの あこがれている自由とは 何でしょうか。

私は 和尚が それを、「ただ、 自由」「無条件の自由」と 呼ぶのを聞いたことがあります。

それは、過去の記憶や 抑圧や 未来の夢に 生きるのでなく、 い ま こ こ、一瞬 一瞬のなかに生きる ことです。

彼は こう言います。

「食べるときには、ただ食べなさい。
それと ともに在りなさい。
歩くときには、ただたんに歩き、そこに在りなさい。
あちらこちらと飛び回ってはいけないよ。
マインドは、つねに先に進むか 遅れるかのどちらか・・・でも、それではいけない。
いま、この瞬間に とどまりなさい」


 私たちの多くは、確かに、師が マインド(心、思考)について 言うことを体験しています。

マインドは、つねに 先に跳ぶか 遅れるかのどちらかで、いまこの瞬間のなかにいることは けっしてありません。

それは たえまない お喋り---。

この お喋りが始まると それは、瞬間のなかにいて全面的に生きる という質を奪ってしまいます。

日常的活動に 没頭しているときでさえ、マインドが 自分自身に喋っているのに、どうして全面的に 生きることができるでしょうか。


 これを実証するために、ちょっとした実験をしてみましょう。


…「まえがき」02に 続く