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「瞑想は内省ではない」01

「瞑想は 内省ではない」


 〈内省〉とは、自分自身について考えることだ。

〈自己想起〉とは 考えることではない。

それは、自分自身に 気づくようになることだ。

その違いは 微妙だが、非常に大きい。


 西洋心理学は 内省を強調し、東洋心理学は 自己想起を強調する。

内省とは 何か?

たとえば、怒っている とする。

あなたは、怒りと その原因について考えはじめる。

なぜ 怒りが引き起こされたかを 分析しはじめる。

善悪の判断を下しはじめる。

「状況が怒らせていたのだ」と 理由づけしはじめる。

怒りについて考える。
怒りを 分析する。

だが 注意の主眼点は 怒りにあり、自分自身にはない。

意識全体が 怒りに焦点を合わせている。

あなたは 観察している、分析している、連想している、それについて 考えている。

どのように逃れるか、どのようにして繰り返さずにすむか を考えだそうとしている。

だが、これは 思考のプロセスだ。

あなたは それが破壊的であるがゆえに「悪」の らく印を押す。

「私は、けっして再び、同じ過ちを犯さない」と誓う。

この怒りを 意志によって制御しようとする。

だから、西洋心理学は 分析的になったのだ---分析と解剖。


 東洋心理学は言う。
「気づきなさい。
怒りを 分析してはならない。
その必要はない。
ただ、それを見るのだ。
〈気づき〉をもって、見なさい。
考えだしてはならない」。

実際、もし考えはじめれば、その 思考が 怒りを見るための障壁となる。

そうなれば、思考が怒りを 手中にする。

そうなれば、思考が怒りを 雲のように取り巻く。

そして、明晰さが 失われる。

だから、けっして 考えないことだ。

無思考状態で、見るのだ。


 自分と 怒りのあいだに 思考のさざ波すらないときには、怒りと直面し、出会うことができる。

あなたは 解剖しない。
その源泉に向かわない。
その源泉は 過去にあるからだ。

あなたは 判断を下さない。
判断を 下す瞬間、思考が始まるからだ。

「私は それを しない」という誓いも立てない。
その誓いが 自分を未来に 導くからだ。

気づきのなかで、怒りの感覚とともに、まさしく「いまここ」に とどまる。

変えることには 関心がない。

考えることにも 関心がない。

あなたは、直接、面と向かって、即座に、それを見ることに 関心があるのだ。

そのとき、それ は自己想起だ。



 そして、これがその美しさだ。
もし 怒りを 見ることができれば、怒りは 消える。


…02へ 続く


MEDITATION
THE FIRST AND LAST FREEDOM by OSHO,
「新瞑想法入門」
(翻訳) スワミ・デヴァ・マジュヌ
(発行) 瞑想社
(発売) (株) めるくまーる