「お喋りなマインド」05

(…その合い間のなかで、あなたは生まれてはじめて、無心(ノーマインド)の一瞥を得る。
「無心」の味わいを知る。
それを、禅の味わい、道(タオ)の味わい、ヨーガの味わいと言ってもいい。)

この小さな空間のなかで、にわかに空は 澄みわたり、太陽が輝いている。
突然、世界は神秘に満ちている。

障害が すべて なくなっているからだ。

あなたの目にかかっていた スクリーンはもはやない。
あなたは はっきりと、見る。

射抜くようにして、見る。

存在全体が 透明になる。



 初めのうち、こういうことは めったに起こらない。
それは 稀な瞬間だ。

だが、それらは あなたにサマーディの 一瞥を与える。

静寂という 小さな貯水地、それらは やってきては消え去る。

だが、あなたは いまや自分が正しい道の上にいることを知っている。
再び、あなたは 見守りはじめる。


 思考や想念が 通り過ぎるとき、あなたは それを 見守る。

空白が 通り過ぎるとき、あなたは それを見守る。

雲は美しい。
陽光も美しい。
いまや あなたは 選り好みする人ではない。

いまや あなたは 固定した観念を持っていない。
「私は 空白しか好きではない」とは言わない。
それは愚かだ。

なぜなら、空白にしか愛着をもたなくなると、またもや 思考に対立することを余儀なくされるからだ。
そうなれば、空白は 消えてしまう。

それらは、あなたが 超然として 距離をおいているときにしか起こらない。

それは 自然に 起こるものであり、無理に起こさせるわけにはいかない。

それは 起こる。

起こすことは できない。

それは 自然な成り行き、自然発生的に 起こるものだ。



 見守りつづけなさい。
思考や想念を 往来させなさい---どこに行こうと---何も まちがいではない!

うまく操ろうとしてはいけないし、指図しようとしてはいけない。

思考が 完全に自由に動くがままに まかせるのだ。

そうすれば、さらに大きな 空白がやってくるだろう。

そうすれば、あなたは 小さな悟り、「小悟」によって 祝福を受けるだろう。

ときには数分間、無思考状態が 続く。
そこには 往来がない。

乱されることのない、まったくの静寂だ。


 より大きな 合い間が やってくるようになると、たんに世界を見抜く 明晰さを持つだけではない。

より大きな合い間と ともに、新しい明晰さが現れてくる。

あなたは 内なる世界を見抜くことができる。


はじめうちは、その 合い間のなかで 世界を見抜く。
木々は いま見える以上にみずみずしい。
あなたは、尽きせぬ音楽---天空の音楽---に 囲まれている。

あなたは、不意に神の臨在のなかにいる。
言いようのない、神秘的な、つかまえることはできないが 自分に届きそうな臨在だ。

それは自分の手の 届くところにあって、しかも はるか彼方だ。


より大きな合い間のなかでは、同じことが 内側でも起こる。

神は 外側にいるだけではない。
あなたは 突如として驚くだろう。
神は 内側にもいる!

「見られるもの」の なかにいるだけでなく、「見る者」の なかにもいる。

神は 外側にも内側にもいる。

だが、そのどちらにも 執着してはならない。


 執着は マインドが 生き延びるための食糧だ。

執着せずに 観照することが、努力なしに マインドを止める方法だ。

そして、その 至福に満ちた瞬間を 楽しむようになったとき、より長い時間 そこにとどまれるようになってくる。


 そして ついには、いつか ある日、あなたは主人(マスター)になる。

そうなれば、あなたは 考えたいときに考える。
必要なら 思考を使う。
必要でなければ、それが休むにまかせる。

もはや マインドが存在しない、というのではない。

マインドは存在するが、それを使うことも、使わないこともできる。

いまや、それは あなた次第だ。

ちょうど 足のように、走りたければ それを使い、走りたくなければ 休む。
だが、足は そこにある。

同様に、マインドも そこにある。


 無心(ノーマインド)は、心(マインド)に 対立しない。

無心は心を 超えているのだ。

無心は 心を殺したり、壊したりすることによって くるものではない。

思考がもはや 必要なくなるほど 全面的に心を 理解したときに やってくる。
理解が 思考に取って代わるのだ。



「二つの困難『お喋りなマインド』」終了
「誤った方法論」へ 続く・・・


MEDITATION
THE FIRST AND LAST FREEDOM by OSHO,
「新瞑想法入門」
(翻訳) スワミ・デヴァ・マジュヌ
(発行) 瞑想社
(発売)(株) めるくまーる