「二つの困難」02

 子宮のなかの子供は 完全に母親と調和している。
子供が母親との調和から 外れることは けっしてない。

子供は 自分が母親と 別なものであることを知らない。

母親が健康なら 子供も健康であり、母親が病気なら 子供も病気だ。
母親が 悲しいなら 子供も悲しいし、母親が幸福なら 子供も幸福だ。
母親が踊れば 子供も踊り、母親が 静かに坐れば 子供も静かになる。

子供には まだ自分の境界というものがない。

これは もっとも純粋な至福なのだが、それは 失われるしかない。


 子供が生まれ、彼は 突如として中心から放り出される。
突然、彼は 大地すなわち母親から切り離される。

停泊地を失い、しかも自分自身を知らない。

母親と 一緒のときは、それを知る必要がなかった。
そんな必要はなかった---自分が すべてであり、知る必要はなく、区別も なかった。

〈あなた〉が いないのだから、〈私〉というものも なかった。

真実在は 分割されていなかった。

それは 純粋なアドヴァイタ、すなわち「不二」だった。


 だが いったん生まれてしまうと、子供の へその緒は切られ、彼は 自分で呼吸しはじめる。

突如として、彼の 全存在が「自分とは 誰か」を知るための探求となる。

それは 自然なことだ。

いまや彼は 自分の境界---自分の肉体、自分が必要とするものに 気づきはじめる。

幸福なときも あれば、不幸なときもある。
満たされるときも あれば、満たされないときも ある。

ときには 空腹で泣いているのに どこにも母親の気配はなく、ときには母親の 胸に抱かれ、また再び その一体感を 楽しんでいる。

だが いまや さまざまな気分、状態があり、彼は しだいに分離を感じるようになる。

離別が起こり、結び付きは 壊れてしまった。


 彼は 母親との 完全なる結婚の状態に あったのだが、いまや離れたきりだ。

そして彼は「自分とは 誰か」を 見い出ださねばならない。

人は 一生のあいだ「自分とは何か」を見い出だそうと しつづける。

それは もっとも根源的な問いだ。



 はじめに子供は〈自分のもの mine 〉に 気づくようになり、それから〈自分 me 〉、〈あなた you 〉、〈私 I 〉という具合に進んでゆく。

きっかり、正確に、この順序で 推移してゆく。


 はじめに子供は〈自分のもの〉に気づく。
見守ってみなさい。
なぜなら、これが あなたの エゴの骨格、その構造だからだ。

まず最初に 子供は〈自分のもの〉に気づくようになる。
「このおもちゃは 自分のものだ。このママは 自分のものだ」と。

子供は 所有しはじめる。
所有者が 最初に入ってくる。

所有性は 根本的なものだ。

あらゆる宗教が 無所有を主張するのは そのためだ。

所有と ともに 地獄が始まる。


 幼い子供たちを見てごらん。
実に 嫉妬深く、所有欲が強い。

どの子供も ありとあらゆる物を ほかの人から 取り上げようとし、なおかつ自分の おもちゃを守ろうとする。

私たちが目にする 子供というのは、まったく暴力的で、他人の必要には ほとんど無頓着だ。

自分のおもちゃで 遊んでいるところに 別の子供が やってきたとき、そこに見い出だすのは アドルフ・ヒットラーや、ジンギスカンや、ナディルシャーのような人間だ。

彼は 自分のおもちゃに しがみつき、いまにも殴りかかり、闘おうとしている。

それは なわ張りの問題、支配権の問題だ。


 まず最初に 所有が入ってくる。

それが 根本的な毒だ。


…「二つの困難」03に 続く

MEDITATION
THE FIRST AND LAST FREEDOM by OSHO,
「新瞑想法入門」
(翻訳) スワミ・デヴァ・マジュヌ
(発行) 瞑想社
(発売)(株) めるくまーる