第十章、「昨日もなく、明日もなく、今日もない」19

(…表面には現れていないかも知れないが、よく見たら、それを感じることができる。)

というのは、彼は ブラーフマチャリア、禁欲を強いているので、その女性が 危険なのだ。

その女性が そこに永くいることは 許せない。
そうなれば 自分に対する不信が 浮かび上がって来るからだ。


 自分の生命エネルギーを 信頼して来なかった者は、誰も信頼できない。

そういう人は 害毒を流す者、人間の敵だ。

そして毒害を流す者は、実に 狡知にたけている。
そのはずだ。
何しろ、この人たちは論争し、かつ自分を防御しなければならないからだ。

つまり、自分の思考(マインド)に 依存しなければならないからだ。


 そして、こういう毒を振りまく者たちがなした害悪が あまりにも深く、全人類にもたらした傷が あまりにも大きいために、どうやってみても人類は そこから脱け出すことはできまい と思われるほどだ。

連中は あらゆるものを 毒してしまった。
「これは悪い、あれは悪い。これは罪だ、あれは犯罪だ」と。

かくて、この連中が あなた方のまわりに生み出した あまりにもひどい混乱のために、人は 何をしても 疚しさを感じてしまう。

何もしなければ、自分の 本性ゆえの疚しさを感じてことになる。


 愛すれば、堕落する。
愛さなければ、愛したい という深い衝動を感じ続ける。
それは自然そのものから やって来ている。

何ひとつ 悪いことはない。
それは 飢えや渇きと同じように 自然なものだ。
そして 飢えや渇きと同じように 美しいものだ。

だが、あなた方の聖者は 人をまさに プラスチック人間に---飢えもなければ渇きもなく、愛もない人間に---したい。
それで やっと、あなたは完全なのだ。


 人のメカニズムが すべてプラスチックで できていれば、それは簡単だろう。
そして科学者は その線に沿って 考えている---メカニズムを 全部プラスチックで作ることを。

そうなれば、人には どんな食料もいらない。
どんな愛もいらない。
人は何も必要としない。
人は 機械になる。
ロボットだ。

時々、どこか具合が悪くなれば、修理工場に 送ればいい。
毎日、燃料補給スタンドに 出かけて行って、そこで石油か何か 入れてもらえば、万事終了だ。

そうなれば人は 完全主義者だ。
それで 完璧だ。


 だが、あるがままの〈生〉となると、これは微妙だ。

それは プラスチックではない。
それは 極めて微妙なものだ。

人の中にあるのは 電線ではない。
人が持っているのは 神経だ。

そのバランスは いつも動いている。
何ひとつ 確かなことはない。
あらゆるものが 他のものの中に溶け込み、融合し続けている。

だからこそ 生きているのだ。


 理解の人は 悩まない。
不完全を 苦にしない。

彼は 完全という観点からは まったく考えない。

理解の人は、その瞬間を可能なかぎり 全面的に 生きるだけだ。

すると、全面的に 生きれば生きるほど、それだけ生きる能力が 高くなる。


 一日が 来る。
彼は それを ただ生きる。
どんな理想も 押しつけず、どんな観念も 抱かず、自分の〈生〉に どんな規則も、統制も設けず、ただ生きる。

彼は ただ生き、楽しみ、悦ぶだけだ。


 “この「信」を生きることが「不二」への道。”


 そして、これこそが 信だ---、
 “「不二」こそ「信心」と同じものだからだ。”


 そして 胸の内深く、信頼する心(マインド)が あれば、「不二」は あなたの 目の前にある。


内側深くに 疑いがあれば、そこに生まれるのは 理論や、思考や、言葉や、哲学や、教義だろう。

そして、眼前のことには、まったく盲目になるだろう。

あなたは 近くを見ることができず、遠くを考えることしか できないだろう。


内なる信頼と 外なる真理。

信頼と真理が 出会う。

他の 出会いはない。

「『不二』こそ『信心』と 同じものだからだ」。



 “言葉よ! 道は言語を超えている。 そこには、

 昨日もなく、

 明日もなく、

 今日もない。”


…20に 続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所