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第十章、「昨日もなく、明日もなく、今日もない」18

(…人は九十九パーセントは罪人であり得ても、一パーセントは聖者がいるはずだ。
それはそうでなくてはならない。) 

というのも、そのもう一方を どこに捨てようがある。
それを極限まで 押し進めることはできても、一パーセントは もう一方が どうしても残ってしまう。

そのことで 躍起になってみても、役には立たない。


 理解の人は 限界を受け容れる。
可能であることの、その可能性を 受け容れる。

彼は 不可能を知っており、決して 不可能を試みない。

彼は寛いで、その可能なことを 楽しむ。
すると、楽しめば楽しむほど、それだけ多くの完全性が その人の〈生〉を訪れる。
だが、
それは もはや心配事ではなく、優美さに満ちている。
そして、それこそが違いだ。


 もし、本当に 宗教的な人間に近づけば、その人の まわりに漂う 無努力の優美さを感ずるものだ。

その人は 自分に 何もして来ていない。
ただ 究極の中に 寛いでしまっただけだ。
だから人は、その人の まわりに漂う無努力を 感じるのだ。


 もし、完全主義者の所へ、偽の宗教的人間の所へ 行ったら、眼に見えるものすべてが 人工的で、そこに優美さは ないだろう。

あらゆるものが はっきりとした輪郭を持ち、あらゆる瞬間が 計算されており、抜け目がない。

していること すべてが修行であり、自然の発露ではない。

彼は 礼儀作法の中に 住んでいるのだ。
本人の礼儀作法が、その人自身の 牢屋になる。
彼は 笑うことができない、子供になることができない、花になることができない。

その人がどんな存在であるにせよ、それ に あまりにも大きな努力を投入しているために、あらゆることが 緊張になり、間違ってしまう。
それは 自然な流れではない。


 だから、これが判断基準に なるべきだ。導師に近づくなら、これを判断基準にしなさい。
つまり、その人が 自然な流れであることを。

そうであって初めて、その人は、今度はあなたが自然な流れになるのを 助けることができる。

もし、当人が無理をしている 完全主義者なら、あなたを 片端にし、完全に殺してしまうことになる。
あなたを いろいろに切り刻み、むこうが完全だと考える頃には、こちらは 死んでいることになる。

 死んだ物しか 完全ではあり得ない。
生きているものは 不完全なままであらざるを得ない。
これを 覚えておきなさい。



 “この覚醒に生きることが、

 不完了を思い煩わずに生きることだ。”


 あなたは ただ生きる。
全身全霊で生きる。
全き者として生きる。

そして、結果については、どんなことになるのかについては 思い煩わない。

「この信を生きることが」---これが僧サンの「信」だ、そしてこれが 私の「信」でもある。
これが 信頼だ。


 完全主義者は 決して信頼しない。
なぜなら、いつも誤ちを 探しているからだ。

完全主義者は 決して何物も信頼しない。

たとえ、一輪の薔薇を 贈られても、たちまち不完全な所を見つける。

彼は その薔薇を見ずに、不完全性を探すだろう。

その目は論理の目で、愛の目ではない。

彼は いつも疑っている。
誰一人 信頼できない。
何しろ、彼には自分が 信頼できないのだから。

いわゆる聖者の所へ行ってみなさい。
この人たちは 自分が信頼できない。
怖れている。
というのは、彼らが自分に強いていることは すべて強制で、自然ではないからだ。

だから この人たちは、自分が寛いだら、事がおかしくなってしまうことを知っている。
もし、美しい女性が 聖者の所へやって来れば、彼が堅くなり、居心地悪そうになるのが分かるはずだ。


 表面には 現れていないかも知れないが、よく見たら、それを感じることができる。


…19に 続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所