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第十章、「昨日もなく、明日もなく、今日もない」17

(…仏陀のような人でさえ、その生涯の最後の瞬間まで、不完全であり続ける。) 

ただ、そのことを 思い煩わないのだ。

仏教徒に涅槃(ニルバーナ)を 表す言葉が 二つあるのは そのためだ。

究極の光明を 彼らは マハー・ニルバーナと呼ぶ。

そして光明を得ることを ニルバーナと呼ぶ。

ニルバーナとは、覚者が肉体の中にいることを 意味する。

その人は 光明を得た、知る者と なった、だが、まだ肉体の中に、肉体という 不完全性の中にいる。

その人は まだ不完全なこの世の 一部だ。

これがニルバーナ、光明だ。


 そして、その人が 肉体を去る時が来る。
究極の中に ただ消えて行く時が。
それが マハー・ニルバーナだ。

これが 大いなる光明だ。

今や 不完全性は 消える。
もうそこには どんな「個」もいない。
今では その人は 全体になった。

全体だけが 完全であり得る。

なぜなら、今や仏陀は 全体の中に分解して、海になってしまったからだ。


 だから これを よく覚えておきなさい。

完全主義とは すべて、利己的な努力なのだ。

人は どんなことにでも 狂う。

自分に できる限りのことを やりなさい。
だが、それ に狂わないことだ。

できるだけ うまくやって、その上で 限界を受け容れなさい。

限界は 必ず ある。

自分の人格にも、道徳性にも、あらゆることに。


 聖者でさえ、少しは罪人のための場所を空けておかなくてはならない。

さもなければ 彼の中の 罪人は どこに行ったらいいのかね。

だから、九十九パーセントの 聖者は可能だが、一パーセントは 罪人が いるはずだ。

その逆も起こる。

人は 九十九パーセントは罪人で あり得ても、一パーセントは 聖者が いるはずだ。

それは そうでなくてはならない。


…18に 続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所