読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

第十章、「昨日もなく、明日もなく、今日もない」16

 
 “一即一切の世界を歩み、

 識別することなく溶解し去れ。

 この覚醒に生きることが、

 不完了を思い煩わずに生きることだ。”



 それなら、どうして完全について 思い煩う必要があろう。

それもまた 利己的な目標だ。

これは 本当に 深く理解されるべきだ。
なぜなら、宗教的な人々でさえ 完全であろうとするからだ。

だが、完全であろう というあなたとは誰か。

全体しか 完全であり得ない。

あなたは決して 完全ではあり得ない。
どうして完全であり得よう。

覚者でさえ、病気に ならなければならない。
覚者も 死ななければならない。

人は 完全ではあり得ない。

完全という 目標そのものが 自己陶酔(エゴ・トリップ) だ。

全体は すでに完全だ。
それについて 心配する必要はない。

その全体の中にあって、あなたもまた 完全なのだ。


 二つの言葉が 理解されなければならない。
ひとつは 完全性、もうひとつは 全体性だ。

本当に 宗教的な人は 全体性を問題にする、決して 完全性ではない。

そして、偽の宗教的人間は 完全性を問題にする。
決して 全体性を 問題にはしない。


 全体性とは「私は いない。いるのは 全体だ」ということだ。

そして 全体は 完全だ。

それ以外に 在りようがあるだろうか。
そこに 比較はない。
他には 誰も いないのだ。

だがもし、完全とか、道徳とか、理想とか、人格 というような観点から 考えれば、人は完全でなければならなくなる。

そうなれば、人は 気が狂うことになる。


 完全主義者は すべて 気が狂う。
それが完全主義者の 最期、終点だ。

というのも、ひとつの 個体としては、人は 不完全なままだからだ。
完全ではあり得ない。

どうやって 完全であり得よう。

あなたのエネルギーは、全体から やって来て、全体に帰るもの、あなた などいないのだから。

波は あくまでも波だ。

海には なり得ない。

だから、あまり頑張れば、狂うより仕方がない。


 宗教の世界に 最も利己的な人々を見かけるのは そのためだ。
それは、彼らが あらゆることについて 完全であろうとし、完全性を 主張するからだ。

彼らは 寛げない。

いつでも緊張して いる。

そして、いつも 何かが うまく行かず、それを正さなければ ならないから、こういう人たちは いつも不安でいることになる。

気違い病院に 行って見れば、あそこでは 九十パーセントの人間が 完全主義者なのが分かる。


 理解の人は 寛いだままだ。

それは その人が 配慮しない という意味ではない。
そうではない。

配慮は するが、限界を知っているのだ。

配慮は するが、自分が ほんの 一部分に過ぎない ということを知っている。

決して自分を全体とは 考えない。

だから決して 心配しない。

理解の人は、自分がしていることを 何でも楽しむ。

それが 不完全なままだ ということ、完全には なり得ないということを 知りながら。
だが彼は、それをすることを 楽しむ。

すると、それを楽しんでいることによって、どんな心配も 生み出すことなく、可能な限りの 完全性が起こる。

彼は それを 愛する。

それが決して 完璧なものにはならないことを、なり得ないことを、どこか不完全であり、それが 自然の本性なのだ ということを よく知っていながらだ。


 だからこそ 東洋では、誰かが 完全になれば、その人は決して 再び生まれては来ない、その人は この世から消えた、と信じて来たのだ。

それは まさに真実だった。
そうでなけれならない。

なぜなら、この世は 不完全なものしか 存在し得ないからだ。

その人は もはや ここには合わない。
必要とされていない。

その人は 全体の中に解体する。


 仏陀のような人でさえ、その生涯の 最後の瞬間まで、不完全で あり続ける。
ただ、そのことを 思い煩わないのだ。


…17に 続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所