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第十章、「昨日もなく、明日もなく、今日もない」15

(…実在を見る者があれば、その人には全体がひとつの有機体であることが分かるはずだ。)

太陽は あなたのために働いている。
星は あなたのために働いている。

世界中の人々が あなたのために働いている。
海は あなたのために働いている。

そして あなたも その人たちのために働いている。

あなたが死ねば、虫が その肉体を食べるだろう。
あなたは 彼らの食物になる。


 あなたは 熟し、死に、誰か他の者の食物になるための準備をしているのだ。

そして、これは そうでなくてはならない。
あなたは 実にたくさんのものを 自分の食糧にして来たのだから。
最後には 自分が 彼らの食物に ならなくてはならない。

あらゆるものが、他の誰かのための食物だ。
それは ひとつの鎖だ。

ところが、あなたは 生に執着したい。
では、林檎は どうなのか---林檎も生に 執着したい。
小麦は どうなのか---小麦も小麦のままでいたい。
が、そうなれば、生は 終わるしかない。


 生は 死を通して生きている。
こちらで あなたが死ねば、むこうで 誰かが生きる。

私が 息を吐き出す、誰かが 息を吸い込む。
生と死も ちょうど その吐く息と吸う息のリズムのようなものだ。

生は 吸う息、死は 吐く息。


 熟すれば、あなたは 大地の上に落ちる。
すると虫が あなたを食べるだろう。
猛禽類が 寄って来て、あなたを 啄むことだろう。
あなたは たくさんの食べ物を 楽しんだ。

今度は あなたが楽しまれる番だ。

あらゆるものが 溶け、出会い、融合する。
だとすれば 何を思い煩うことがあろう。

これが起こるべきこと、これが すでに起こっていることだ。

全体だけが 生きている。
「個」とは 偽りだ。
究極なるものだけが 生きている。
他はすべて その中の波に過ぎない。

それは やって来てはまた去る。


 人が 鼻の先の 実在を見るなら、突如として、そこには 何の問題も、不安もない。

自分が生きていようと いまいと、全体は 生き続けるからだ。
では、 自分の死など 問題ではないのだ。
それなら、自分の生だって問題ではない。

自分は 全体の中で 何百万、何千万の姿で 生きて行くだろう。


 時には、自分は果物に なるだろう。
これがヒンドゥー教の、何百万のヨーニ という概念の 意味するものだ。

ある時、自分は獣だった。
また ある時、自分は昆虫だった。

またある時は 木だった。
またある時は 岩だった。

かくて 生は 続く。


 だから、ある意味では あなたは 誰でもないのだ。

そして また別の意味では、誰でもある。

ある意味では あなたは虚ろであり、また別の意味では、充満している。

ある意味では あなたは存在しない。
また別の意味では すべてでもある。

それは、あなたが 切り放されてはいないからだ。


 分離が 不安を もたらす。
もしあなたが 不安なら、苦悩しているなら、それは、あなたが自分を 切り放されている と思っているということだ。

あなたは 自ら 不必要な問題を 作り出している。

そんな必要はない。
なぜなら 全体は生き続けるのだから。
全体は 決して死なない。

死ぬことができない。

部分だけが死ぬ。

だが その死は、本当は 死ではない。

それは 再誕だ。
あなたは ここで死に、別の所で 生まれている。


…16に 続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所