第十章、「昨日もなく、明日もなく、今日もない」14

(…〈生〉は ひとつの有機体だ。
何ひとつ 分割されてはいない。)

あらゆるものが 一体だ。

もし、それを 分割されていると考えるなら、その分割は 思考(マインド)によって 押しつけられたものだ。

さもなければ、あらゆるものは 混ざり、溶け込み、他のものの中に 融合している。
これが 四六時中 起こっていることだ。

それが見えないのは、人が 言葉によって完全に 盲目にされているからだ。


 果物を ひとつ食べるとする。
その果物は 自分の 血になる。

その木が 自分に混ざり、境界は なくなった。
それに その果物は たくさんの人の 血であったかも知れない。

いろいろな動物や、いろいろな植物や、さまざまな 岩であったかも知れない。

果物である このエネルギーは、常に 存在の中にあった。
融解し、溶け入り、溶け出し、これからあれへと異動し、あらゆる境界を 通り過ぎながら。


 どんな現象でもいい、ちょっと見てごらん。
樹に実った あの果物は 何をしているのか。

科学者は 果実がやっていることは奇跡だ と言う。

それは、大地の変容、日の 光の変容、水の変容だ。

それは 奇跡だ。
何しろ、土を食べることは できないし、太陽の光を 直接食べることもできないのだから。

この果実、林檎は 奇跡を行っている。
それは あらゆるものを変容し、人が吸収できるような物にしているのだ。

かくて、それは人の血となることができる。


 そして このエネルギーが、常に 動いて来ている。
それは いつもそこに あったからだ。

エネルギーの 全体は同じままだ。
どこにも 行く所がないのだから、そのエネルギーは 多くも少なくも なりようがない。

宇宙には 何ひとつ 加えられもしなければ、そこから何ひとつ 削り取られることもあり得ない。

どこへ持って行くと言うのかね。

全体は 同じままだ。


 ある時、その果実は 土の中にいた。
それを 食べることなど できるはずもなかった。

その果実は 太陽の中にいた。
そのビタミンDは 太陽の中にあった。
今では、その果実が それを吸収している。

今や大地は 変容した。
奇跡が 起こっている。

奇跡を見るために、どうして手品師の所になど行くのか。

それは 起こっている---土が 美味しい果実に 変わったのだ。


 あなたが それを食べれば、それは血になる。
その血は 絶え間なくかけめぐり、精子を創る。

今やひとつの種が生まれ、それは 小さな子供になる。

あの果実、あの林檎は、今では子供に変わっている。

どこに 境界がある。
木は あなたの中に移り、太陽が その木に移る。
海が その木に移り、あなたが 子供に移り、それが続いて行くのだ。


 あらゆるものが 動いている。あなたの中にある息は、少し後には 私の中にあるだろう。

息は 生命だ。
だから、あなたの生命と 私の命は 別物ではあり得ない。

同じ息を あなたも呼吸し、私も呼吸するのだから。
私が 吐き出し、あなたが それを吸い込む。
あなたが吐き出し、私が それを吸い込む。


 あなたの心臓と 私の心臓は、さして別ものではあり得ない。
それは まわりにある同じ活力の海を呼吸し、脈打っている。

私は これを私の息と呼ぶ。
だが、私が それを 自分のものと 呼び終える頃には それはもう私のものではない。
それは動き、棲みかを変えている。
今度は、誰か 別の人の息になっている。

人が、自分の命と 呼んでいるものは、自分のものではない。

それは 誰のものでもない。
あるいは みんなのものだ。


 実在を 見る者があれば、その人には 全体が ひとつの有機体であることが分かるはずだ。

…15に 続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所