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第十章、「昨日もなく、明日もなく、今日もない」12

(…もし全面的に空っぽで 自我がなく、家の中に 誰もいなかったら、その人は存在だろうか、それとも非存在だろうか。
いるのか、それとも いないのか。
何とも言うことはできない。)


 人々は 何度も何度も 仏陀にこう尋ねたものだった。
「人が 覚者になった時には 何が起こるのでしょうか。
その人は いるのでしょうか、それとも いなくなるのでしょうか。
魂は あるのでしょうか、ないのでしょうか。
覚者が 肉体を離れる時には 何が起こるのですか。
どこに 行くのでしょう。
どこに いらっしゃるのですか、それとも いらっしゃらなくなるのですか」

すると、仏陀は言う。
「そういうことは、問うてはならない。
自分で覚者になって、見てみるがいい。
なぜなら、私が 何を言おうと、それは間違ったものになるからだ」と。


 そして仏陀は常に このような問いに 答える誘惑を避けた。




 “疑いと、議論に 時を浪費してはならない。

 そんなことは、この真実とは 何の関係もない。”


 実在は 人の議論に依存しない。
人が、それを どんなふうに証明しようと、そんなことは 無関係だ。

実在は そこにある。

それは 人の生まれる前から そこにあったし、人の死んだ後にも そこにある。

それは 人の思考(マインド)には 依存しない。
逆に、人の思考(マインド)は それに依存している。

実在は どんな証明も反証も 必要としていない。
それは それ自身で 存在している。

人は それを立証できないし、反証もできない。


 だが人々は、神が存在するか しないか、議論を続ける。

神が 存在するか否かについて、毎年 何千冊もの本が 出版される。

すべて 馬鹿げたことだ。

「存在する」と言って、それを立証しようとする者も「存在しない」と言って、それを証明しようとする者も、ともに 同じ舟に乗っている。

証拠と議論と 倫理の舟だ。


 もし 神がいるなら、笑っているに違いない。
神に あなたの議論が 必要だろうか。

あなた方は 何を言っているのだろう。
もし神が いるとしたら、その存在は、自分が神を 証明できるか否かにかかっている、と言っているのだ。

あなたが 何をしようと---立証しようと、反証しようと---神の存在が、そんなあなたの議論に 依存すると思うかね。


 存在は、誰の議論も要せず、そこに ある。

証人として 呼び出されている者も いなければ、それを決定しようというような法廷も 存在しない。

どうやって それが判定できる。
それに誰が 裁判官なのかね。

しかも、議論は 絶え間なく続いて来た。
数えられないほどの年月、人々は議論を続けて来た。

議論を続ける 無神論者達がおり、この人たちに 神の存在を説得できる者は 誰もいない。

議論を続ける 有神論者達もいて、その人たちに 神の非在を説得できる者は 誰もいない。

有神論者も無神論者も ともに議論するが、どんな議論でも、事は終わらない。
問題は同じままだ。



 僧サンは、議論というものは すべて見当違いだと言う。

有神論者も無神論者も、賛成も反対も、両方ともだ。
それは 馬鹿げたことをしているのだ。

なぜなら、実在は そこにあり、それは どんな証明も必要としていないからだ。

それは すでに そこにある。

それは いつも そこにあったし、いつまでも そこにあるだろう。

真理とは、現に在るもののことだ。


 議論することで、人は エネルギーと時間を 浪費するだけだ。


…13に 続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所