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第十章、「昨日もなく、明日もなく、今日もない」11

(…ある男が睦州(ボクジュウ)の所にやって来て、こう言ったことがある。)

「私は先を 急いでいる者です。
ですから 老師のもとに 永くは留まれません。
お側を ただ通り過ぎるつもりでしたが、お寄りして 一言を お伺いした方が いいのではないかと思ったのです。
多くは必要ありません。
真実を示す たった一言を おっしゃって下さるだけでいいのです。
胸の内に その言葉を留めてまいります」

睦州は 言った。
「無理は 言わぬことじゃ。
一語と いえども、真実を消してしまうには十分じゃからな。
それに、あんたが 急いでいるかどうかについては、わしには何とも言えん。
ただ これを持って 行きなされ。
あんたが睦州に尋ねた時、『わしには何とも言えん』と言った ということをな。
ただそれを 覚えておきなされ」

その男は言った。
「それでは いかにも少のうございます。
わたくしには 役に立ちそうにはありません。
もう少し、 一言を お示し下さい。
多くを 求めるつもりはありません」

睦州は 言った。
「一言 と言うても、それですべてが 壊れるでな。
ただ わしの顔を見て、それを持って 行きなさることじゃ」


 だがその男は、見ることが できなかった。

それは 難しい。
人は どう見るかを 知らないからだ。

さもなければ、睦州の所まで 行く必要もなかっただろうが。



 人は 眼前を 見ることができない。
自分の 鼻の先が 最も見えにくい所だ。
横なら 問題ない。

人は 左と右は 行くが、決して 真ん中は行かない。
だから、左寄りの狂人や、右寄りの狂人はいる。

だが 中道の人、狂っていない人を見つけることはできない。

極端に走れば 人は 狂う。

中道に止まれば、光明を得る。

だが 誰も 中道には止まらない。

その 中道で、人は 実在に出会う。


 言葉の言明は、半面に ならざるを得ない。
言葉は、事の全体を 言うことはできない。

「神は いる」と 言えば、「神は いない」ということを 否定したことになる。

ところが、神は その両方だ。

「生が ある」と言えば、死を否定したことになる。
が、生は 死でもある。

何かを言えば、それは 半面に ならざるを得ない。

そして半面の真理は、全面的な嘘よりも 危険だ。
その 半面性故に、それは 真実の香りを運び、それによって 人が騙されることもあり得るからだ。


 党派は すべて、半面の真理に基づいている。
党派が危険なのは そのためだ。

宗派は すべて危険だ。
それが 半面の真理に基づいているからだ。
そしてそれ以外には、ありようがない。

なぜなら、宗派も、信条も、党派も 必然的に 言葉に基づいているからだ。

仏教は、仏陀に基づいてはいない。
それは仏陀の 言ったこと に基づいている。

そして、仏陀が 言ったことは 半分でしかない。
なぜなら、全体は 言明され得ないからだ。
それは、どうしようもないことだ。


 あるいは、人が全体を 言おうとすることはあり得る。
が、そうなると何ひとつ 言われていないことになる。

もし、「生とは、生と死の両方だ」と 言ったとする。
これは 何を 言っているのか。

もし、「神とは、悪魔と神の両方だ」と言ったとしたら、これは いったい何を言っているのか。

これでは道理に合わぬことを語っていることになり、明快ではない。

人は 気でも違ったかと思うだろう。

神が どうして、善でも悪でも あり得るのか、生が どうして、死でも生でもあり得るのか、死は 生に 対立しているはずだ、と。



 “ここも空、そこも空、

 だが、無限の宇宙が常に眼前にある。

 無限大と無限小に何の違いもない。”


 もし何かが 無限に大きく、何かが無限に 小さいとしたら、その無限性の故に、そこには どんな相違も あり得ないことになる。

人が 分割し、分析する道をたどれば、無限小に 到達することになる。

科学は無限小に、電子に到達した。

今や あらゆるものは消えてしまった。
何ひとつ 見ることはできない。
電子は 見られたことがない。
誰も それを見ることはできない。

では、なぜ科学者は 電子は存在する と言うのか。


 物理学は ほとんど形而上学に なってしまった。
そして物理学的 言明、つまり物理学者の言明は ほとんど哲学的、神秘的様相を呈している。

というのは、科学者は こう言っているからだ。
「我々には電子を見ることはできない。
その結果を観察することが できるだけだ。
原因は 見えないが、そのことの効果は 見える。
我々は 電子が存在するに違いないと推論する。
なぜなら、もし電子がないなら、こういう結果は あり得ないからだ」と。


 これは 神秘家達が 常に言ってきたことだ。

神秘家は言う。
「我々には 神は見えない。
だが、この創造を見ることはできる。
神が原因で、この創造が 結果だ。
神こそ見えないが、この創造は見えている。
神は いるに違いない。
さもなくて、どうして この創造が可能なのか」と。


 私の声が 聞こえて、しかも私の 姿を見ることができなければ、あなた方は、私が どこかにいる と推論するはずだ。
そうでなければ、私の声が 聞こえるはずがない、と。

その効果は見えるが、その 原因は見えない。

科学は、無限小にまで到達した。
すると、その微小なものは完全に消えてしまった。
それが あまりにも小さく小さく、小さくなってしまい、あまりにも微かで、もう触れることができないからだ。


 宗教は 無限大に到達する。
それは あまりにも大きく大きく、あまりにも 広大になって、その境界も見えない。

それは あまりにも広大で、人には捕らえられない。
人は それに 執着できない。
それ に 境界をつけられない。

無限小は 見ることができない。
それは 不可視になる。
そしてまた、無限大も 見えない。
それも 不可視になる。


 そこで 僧サンは 素晴らしいことを言う。

それが無限で あるが故に、両者は 同じだ、と。

そして、無限なるものは---それが大きかろうと 小さかろうと無関係に---同じだ。


 “無限大と無限小に何の違いもない。

 定義は消え、境界はもうないからだ。

 存在と非在もまたそのとおり。”


 もし全面的に空っぽで 自我がなく、家の中に 誰も いなかったら、その人は存在だろうか、それとも 非存在だろうか。

いるのか、それとも いないのか。
何とも 言うことはできない。


…12へ 続く


NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所