第十章、「昨日もなく、明日もなく、今日もない」10

(…さて、この経文に入る前に覚えておくべき 二番目のことだ。
それは、もし沈黙したら、その人は いないということだ。
なぜなら、感じられるのは騒動だけだからだ。
あなたは これまで沈黙など感じたことがあるかね。
誰がそんなものを感じよう。
感じられるようなら、少しは騒動がある ということなのだから。)



 こんなことがあった。

ボーディダルマ(菩堤達磨)の 弟子の一人が やって来た時、ボーディダルマは その弟子に「完全に空っぽで、静かになったら、その時初めて私の所に来るがいい」と 告げた。


 その弟子は 何年間も修業した。
自分が 空っぽで、静かになると、その弟子は ボーディダルマの所に来て 言った。

「師よ、参上しました。
師は 私に、静かに、そして空っぽになるように とおっしゃられました。
今や私は、静かに、そして空っぽになりました」

ボーディダルマは その弟子に言った。
「行って、その空虚と沈黙も 投げ出して来るがいい」


 もし それが感じられるようなら、それは全面的ではなく、そこに 分割がある ということだ。

感じる者は、まだ静かになっていない。
沈黙は 気配のように、まわりを取り囲んではいるかも知れない。

だが その 感じている者は、まだ静かになっていない。
さもなくて、誰 が 感じるのか。


 本当に 静かになったら、人は静かですらない。
なぜなら 静けさとは、騒音の対極に 過ぎないからだ。

騒音がないのに、どうして沈黙が あり得よう。
騒音が消える時、その対極も 消える。
そうなった時、人は、「私は静かだ」と言うことすらできない。

言えば、逃がす。

ウパニシャッドが、「私は知った」と言う者は 知らない、と言っているのは そのためだ。

ソクラテスは、人は 賢者になれば、自分の無知しか 知らない、と言う。


 人が 静かになれば、何が何とは 分からなくなる。

あらゆるものが、あらゆるものの中に 溶け込む。

そこには 自分がいないのだから。

自分とは 騒音の一部に過ぎない。
「自分」こそ この世で最も うるさい者だ。


 どんなジェット機にも、この「自分」が出すほどの 騒音は出せない。
これこそが この世で最大の騒動屋だ。
他はすべて その副産物に過ぎない。

この「自分」こそが 最も騒々しい現象を引き起こす。


 沈黙したら、その人は いない。

誰が 感じるのかね。
空っぽになったら、「私は 空っぽだ」と 感じることはできない。

そうでないなら、感じる自分 が まだそこに いるのだ。

つまり家は ふさがっている、空き家ではない。

本当に空っぽなら、その人には 自分が いない。
騒音が消える時、自分も消える。
その時 実在が眼前にある。

それは まわり中にある。

それは 内側にも、外側にも、至る所にある。

実在のみが あり得るからだ。


 「自分」とともに 夢は すべて消える。
「自分」とともに すべての欲望が消えるからだ。

欲望がないのだから、夢が 完成しなければならない未完の願望が あり得るはずもない。

空っぽだけが 完璧であり得る。
これが僧サンの言う意味だ。


 それでは経文に入ろう。

 “ここも空、そこも空、

 だが、無限の宇宙が常に眼前にある。

 無限大と無限小に何の違いもない。

 定義は消え、境界はもうないからだ。

 存在と非在もまたそのとおり。

 疑いと、議論に時を浪費してはならない。

 そんなことは、この真実とは何の関係もない。”



「ここも空」とは 内面の空、「そこも空」とは 外の世界の空だ。

ところで、二つの空が あり得るだろうか。
それは 不可能だ。
二つの空など あり得ない。

その二つを どうやって区別するのかね。

二つの空は、まさに その本質によって、ひとつに なってしまう。

内側とか 外側とか、それは頭(マインド)の 分割だ。
思考(マインド)が 消えれば、その分割も消える。


 “ここも空、そこも空”

 本当は、こことか そことか言うのも、あまり良くない。
厳密に 正しくない。
だが、それは 仕方がない。

言葉では、何事も厳密に 正確には 表し得ない。
言葉は 歪める。

僧サンには 分かっている。

今となっては、ここもそこも ありはしない。
それは 昔の区別だからだ。

内も外も 昔の区別だ。

今も昔も 古い区別だ。

言葉と一緒に それは消える。


 ある男が 睦州(ボクジュウ)の所に やって来て、こう言ったことがある。


…11に 続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所