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第十章、「昨日もなく、明日もなく、今日もない」09

(…そこから抜け出られる可能性があるからだ。
もし、人が生まれつき それを持っているのなら、そこから抜け出る道は なかっただろう。)


 もっとも、それなら それは〈道(タオ)〉の 一部だろうから、その必要もなかっただろう。
が、これは〈道〉の 一部ではない。

人間が 創ったものだ、功利主義者だ。

それには 目的がある。

社会は 言語なしには 存在できない。


 個人は 二十四時間、社会の一部である必要はない。

たとえ数分であろうと 社会の一部でなくなれば、突然、人は 全体に溶け込み、〈道〉の 一部になる。

だから 人は 柔軟であるべきだ。

社会の中で 動く必要がある時は、言語を使うべきだし、社会の中に 入って行く必要がない時は、言葉を 捨てるべきだ。

言葉は 機能として、ひとつの仕組みとして 使われるべきだ。
それに取り憑かれるべきではない。

それこそが 最も肝心なことだ。



 僧サンさえ 言葉を用いる。
私も 言葉を使っている。
あなたたちに 伝えたいことがあるからだ。

だが、あなたたちが いない時には、私は まったく言葉の中にはいない。
話す必要がある時、私は 言葉を使う。

あなたたちが いなければ、私は 言葉なしにいる。

その時 内側では、どんな言葉も 動いていない。

何かを 伝える時、私は 社会の一部になる。

何も伝えていなければ、私は〈道〉の 一部だ。

宇宙の一部をとも、その他、あなたの好きな どんな名前を付けても かまわないが。


 神が相手なら、沈黙が 伝達手段だ。
人が相手なら、言葉が 伝達手段だ。

神と 伝えあいたければ、沈黙するがいい。
人に 意志を伝えたければ、口を 開きなさい、黙っていてはいけない。


 友達と 一緒なのに 黙って坐っていれば、こっちも具合悪いし、相手も 居心地が 悪くなるだろう。

相手は 何かまずかったのではないか と考えて、「どうしたんだ。なぜ話さないんだ。
悲しいことか、しょげるようなことでもあったのか。
何か まずいことがあったのか」と尋ねるだろう。

夫が 黙って坐っていれば、突然 妻が
「なぜ黙っているの。
どうして 私に話してくれないの」と言って、面倒が持ち上がる。

妻が 急に黙りこくったら、これも厄介だ。


 相手に話す というこの必要性は、どうして あるのだろう。

それは、もし 話さなければ、それは あなたが独りだということ、相手が そこにいることを 受け容れていない ということになるからだ。

あなたが 口をきかなければ、相手は あなたにとっては存在せず、あなたは 独りになる。

それでは、こちらの 向こうに対する無関心が 相手にも 分かることになる。

だから みんなは 話し続けるのだ。


 何も話したくなければ、あるいは伝えること、言うことが 何もなければ、天気か、何かのことを 話す。
何でもいい、とにかく 話す。
何も話さなければ 相手が傷つくかも知れないからだ。

だから 人と一緒にいて 黙っているのは無作法だ。

だが、神が相手の時は、事情は その逆だ。
自然を相手にする時は、口を開いたら 見逃すことになる。


 自然を相手に 口を開くということは、自分が 目の前の実在と 無関係だということだ。

そこで必要とされるのは 沈黙だけだ。

生まれる時、人はこの世に 沈黙を持って来る。

言葉は 与えられたものだ。

それは 貰い物、社会の与えた 訓練だ。
それは 役に立つ ひとつの工夫、手段だ。

だが、人が この世に持って来たものは 沈黙だ。
もう一度 その沈黙に到達しなさい。
それだけだ。

もう一度 赤ん坊に返りなさい。

すべてが ここに帰着する。
そう結論していい。

覚者は すべてこの結論に至る。
人は 再び 自然の一部にならなければならない、と。


 それは必ずしも、社会に対立する ということではない。
それは 対立ではなく、ただ 社会を超えて行くことを 意味するに過ぎない。

生まれたその時が、その誕生の瞬間が、〈生〉の 最後の瞬間にならなければならない。

人の死は、再び 誕生のようでなければならない。
人は再び 赤子に ならなければ、生まれ変わらなければならない。


 イエスは「再び生まれなければ、あなたは 神の王国に入れない。
幼子のようで ありなさい」と言う。

イエスは 何を言っているのだろう。
イエスは、ただ 自然であれ と言っているのだ。

社会が 与えてくれるものは すべてがいい。
だが、その中に 閉じ込められてはいけない。
さもなければ それは足かせになってしまう。

もう一度、無限なるものでありなさい。
社会は 無限ではあり得ない。

それは 狭いトンネルでしかあり得ない。
その本質として そうでなければならないのだ。


 さて、経文に入る前に 覚えておくべき 二番目のことだ。

それは、もし沈黙したら、その人は いないということだ。
なぜなら、感じられるのは 騒動だけだからだ。

あなたは これまで沈黙など感じたことがあるかね。
誰がそんなものを 感じよう。

感じられるようなら、少しは 騒動がある ということなのだから。


…10に 続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所