第十章、「昨日もなく、明日もなく、今日もない」07

(…本物に見えるかも知れないが、そうではない、本物ではあり得ない、どうして象徴が、言語記号が本物であり得よう。)


 あなたが 腹を すかしていて、私が パンの話をして聞かせるとしよう。
あなたの 喉が渇いているのに、私が 水について話して聞かせるとする。

話すだけではない、最上の科学公式を与えたり、明解な定義を 与えるとする。

あるいは、こう言うとする。
「心配要らない。
水とは H2Oのことだ。
あなたは ただH2O、H2Oと復唱するだけでいい。
それを マントラにしなさい。
超越瞑想だ。TM だ。
H2O H2O H2O。
そうすれば 何もかも起こる。
渇きは なくなるはずだ。
何しろ これが公式なのだから」と。

 H2O は公式かも知れないが、渇きは その言うことを聴きはしない。

これが 世界中で起こっていることだ。
オーム、オーム、オームを 復唱し続ける。

オームも まさに H2O のような ひとつの公式だ。

ヒンドゥー教徒が この三つの音を発見したからだ。

A、U、M は 根源的な音だ。
だから AUM(オーム) は ありとあらゆる音を含んでいる。

だから、他のマントラなど 何も要らない。
ただ オーム、オームと 復唱していれば、あらゆる音域が、根源音が 唱えられたことになる。

根元が あるのだから、それを唱えていれば、じきに花を付ける、と。


 H2O も、オームも、その他 それに類したものは、すべて あまり役には立たない。

なぜなら、誰が それを復唱すると言って、唱えるのは 思考(マインド)だからだ。

ところが 実在は 自分のまわりにある。

それについて 唱える必要などない。
それについて 考える必要すらない。

見るだけで、自分の目を 開くだけで、至る所に それがあるのが分かる。

それを 見逃していることが 奇跡だ。

達成すれば、それは奇跡ではない。


 いいかね、私は 仏陀が奇跡、僧サンが奇跡だ とは言わない。
あなた達が 奇跡だ。

なぜなら、それが 何であれ、彼らの達成したものは あまりにも素朴なこと、誰もが 達成すべきことだからだ。
そこに 語るべきどんな神秘があると言うのか。

覚者は 実在を見た。

そして実在は あなた方のすぐ目の前にある。

これほど あからさまな現象を、これほど大きな出来事を見つけたといって、なぜ 達成などと呼ぶのか。

何事でもない、実に 素朴なことだ。


 実在は、覚者や あるいはバッファローの前にあるのと同じように、あなたたちの 前にある。

奇跡は、あなたたちの方だ。
どうやって それ を見逃しているのか。

また、どうやって 見逃し続けられるのか。

実際、幾生涯にもわたって 見逃し続け、しかも実在は ただ目の前にあるだけで 何ひとつできず、こちらは それを 見逃し続けるとは、あなたたちも 大したテクニックを、それも 完璧なやつを発見したに違いない。

その秘訣とは 何か。

どうやって それを実現するのか。

どうやって この魔法を行うのか。

その魔法が、「に ついて」だ。
この「に ついて」という言葉こそが 魔法だ。


 花が あれば、人は その花について 考え始める。
と、花は もう そこにはなくなり、思考(マインド)は その言葉によって 脇に逸れる。

すると 自分のまわり、自分と その花の間に 幕が下りる。

すると あらゆる物が ぼんやりと、ごちゃ混ぜになり、言葉が本物よりも 重要になる。

そうなれば 記号は、記号化された そのものよりも 重要になる。


 アラーとは 何か---言葉だ。
ブラーフマとは 何か---言葉だ。
神とは 何か---言葉だ。

それを ヒンドゥー教徒キリスト教徒と 回教徒が その言葉について 闘い続け、しかも その三つの言葉が すべて同じものの 象徴であることを 問題にする者はいない。

象徴の方が 重要になっている。


 アラーに 反対するようなことを 言おうものなら、回教徒は 即座に戦いを挑み、殺すことも、殺されることも辞さない。

だが ヒンドゥー教徒なら 笑っているだろう。
それがアラーについて 言われていることで、自分は いっこうに構わないからだ。

だが、同じことが ブラーフマについて 言われたとなれば、こちらも刀を抜く、今度は 許せない。

何という 愚かしさだろう。
アラーといい、ブラーフマといい、ゴッドといい、それは すべて・・・・、地上には 三千もの言語があり、神を表すためにも 三千の言葉がある。

記号化された そのものは 記号ほど重要ではなく、薔薇が 重要なのではなく、「薔薇」という 言葉が重要だというわけだ。


…08へ 続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所