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第十章、「昨日もなく、明日もなく、今日もない」06

(…外で遊びたくなった子供が父親に訊く。
「外に出て遊んでもいい」
「駄目(ノー)」)

 いったい、これは どういうことだろう。
なぜ、すぐに「否(ノー)」が出て来るのか。
なぜ「諾(イエス)」は 言いにくいのか。

なぜかと言えば、人は 闘う時に、自分を感じるからだ。
さもなければ、すべてが申し分なくて、自分を感じることができない。

「諾(イエス)」を言えば、そこに 自分はいない。
本当の「諾(イエス)」が 言われる時、自分は 不在だ。
どうやって自分を感じられよう。

人は 対立しか 感ずることはできない。

そして その時、人は自分の力を感じる。

「否(ノー)」が 人に力を与える。

では、どうして「否(ノー)」が 人に 力を与えられるのか。
それは、「否(ノー)」を言えば、人は すべての 力の源泉から切り離されるからだ。

それ は 偽りの感覚だ、それは病いだ。
それは 病気だ。


 「諾(イエス)」を言いなさい。
そうすれば 変容が起こり始める。

普通、人は「諾(イエス)」と 言わなければならない時以外は、「否(ノー)」を言う。

「諾(イエス)」を言う時は いつでも、あまり いい気持ちがしない。

まるで負けたような、仕方がない という感じだ。

「否(ノー)」を言うのは いつでも気持ちがいい。
自分が 勝ったような、相手を へこましてやったような気分だ。

「駄目(ノー)」を 言ってやった、自分の方が 強い、と。

「否(ノー)」は 暴力だ、「否(ノー)」は 攻撃性だ。

「諾(イエス)」は 祈りに満ちている。
「諾(イエス)」は 祈りだ。


 教会や、モスクや、寺院に行く必要などない---〈生〉は 十分に大きな寺院だ。

ただ「諾(イエス)」を 言い始めるだけでいいのだ。
そうすれば、どんな所も 祈りに満ちているのを感じるだろう。
どこにも 自我(エゴ)が 不在になるからだ。

そして 自我がなければ、突然、全体が自分に流れ込む。

自分は 閉じていない、自分は 開いている。

新しい そよ風が 全体から吹いて来て、エネルギーの 新しい大波が 自分をめがけて押し寄せて来る。

そうなれば、人は 一瞬 一瞬 新たになる。


 だから まず第一のことは、思考(マインド)は 考えることや 夢を見ることで 代理をさせるが、それは決して 本物にはなり得ない ということだ。

それは あくまでも偽物だ。

本物に 見えるかも知れないが、そうではない、どうして象徴が、言語記号が 本物であり得よう。


…07へ 続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所