第十章、「昨日もなく、明日もなく、今日もない」05

(…変容をもたらすひとつの理解は、全体を相手に闘うな、ということだ。)


その努力の すべてが馬鹿げている。

しかも 全体の方は そのことで苦しむことはない。

なぜなら、全体の方は あなたと闘ってはいないからだ。
たとえ こちらには、全体が 自分を相手に闘い、自分を叩きつぶし、勝ちを誇ろうとしているように 見えたとしても、それは あなたの間違いだ。

全体を相手に闘えば、まさに その闘いが反射する。
全体は あなたと 闘ってなどいない。

全体は、あなたを相手に 闘うことなど考えたこともない。
それは あなた自身の 想念(マインド)の反映、そして全体が それに反響したものだ。

何であれ、こちらのすることが 反射する。
全体は 鏡だ。


 自分が 戦闘的な気分になれば、まわりの すべてが 自分を叩きつぶそうとしているように見える。

 上流に向かって 泳いでみてごらん。
河全体が 自分を下流に押し流そうとしているように、まるで その河すべてが、ただ自分を打ち負かそうとして そこにあるように思われる。

だが その河は、ただ あなたを 打ち負かすために そこにあるのだろうか。
その河は あなたのことなど まるで知らないかも知れない。


 あなたが そこに いなくなっても、同じように 流れ続けているだろう。
河は、あなたがいるから そんなふうに流れているのではない。

だから、河が自分に 敵対しているように感じるとすれば、それは あなたのせいだ。
あなたが 流れに逆らおうとしているからだ。


 ある時、ムラ-ナスルディンの妻が 氾濫した河に落ちたことがある。

近所の人達が ナスルディンの所に駆け込んで来て 言った。
「奥さんが 河に落ちた。
氾濫していて、流れが速いんだ、早く来て」

ナスルディンは 河に駆けつけ 飛び込むや、上流に向かって 泳ぎ始めた。

まわりに立って見ていた人たちは、「何をしてるんだ、ナスルディン」と言った。

ナスルディンは言った。
「女房のことなら よく分かってるさ。
あいつはいつでも流れに逆らうんだ。
流れに従うなんて あいつにはできない。
できっこない。
あんたたちは 河のことなら知っているかも知れないが、女房のことは俺が知ってる。
だから ほっといてくれ」


 いつでも 流れに逆らう人がいるものだ。
どこにでもいる。
そして 自分で頑張るばかりに、この人たちは、流れが 自分を押しつぶし、自分に闘いをいどみ、打ち負かし、勝ち誇ろうとしているように感じる。


 全体はあなたに 敵対してはいない。
そんなことは あり得ない。

全体は あなたの母親だ。

あなたは 全体から やって来て、全体の中に 溶け入る。
その全体が どうしてあなたに 敵対することなどあり得よう。

全体は ただあなたを 愛するだけだ。
あなたが それを理解していようといまいと、何の違いもない。
だが、まさに その愛故に、全体が 逆流することは あり得ないのだ。


 それに、いいかね、もし全体が 上流に向かって流れ始めたら、あなたは それ に逆らい始めるだろう。

というのは、肝心なのは そういうことではないからだ。
肝心なのは あなたの 否定志向(マインド)だ。

エゴとは、「否(ノー)」を言うことで 強くなるのだから。
「否(ノー)」を 言えば言うほど、エゴは ますます自分の権力を感ずる。

「諾(イエス)」を 言えば言うほど、ますますエゴは 落ちて行く。

だからこそ、どんなことにも、普通のことにさえ、「諾(イエス)」を言うのは ひどく難しいのだ。


 外で遊びたくなった子供が 父親に訊く。
「外に出て 遊んでもいい」

「駄目(ノー)」


…06へ 続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所