第十章、「昨日もなく、明日もなく、今日もない」04

(…踊るミーラにも、沈黙する仏陀にも、歓喜に溢れた僧サンにもならないだろう。)


駄目だ。
なぜなら、この人たちの やり方は 百八十度反対だからだ。

この人たちは 宇宙に合わせる。

宇宙と ひとつになって、それと 一緒に流れる。
宇宙の中の ただの影になってしまう。

この人たちは 闘わない。

存在と どんな葛藤も、どんな論争も起こさない。

在るもの すべてにただ「諾(イエス)」を言うだけだ。

この人たちは「否(ノー)」を言う人達ではない。
この人達は「諾(イエス)」を言う人達だ。


 それが 宗教的である ということの意味だ。
「諾(イエス)」を言う人であることが。

それは 神を 信じているか いないかというような問題ではない。

仏陀は どんな神も信じていなかった。
だが仏陀は 宗教的な人間だ。
「諾(イエス)」を言う人だからだ。

その「諾(イエス)」を 誰に対して言うかは 問題ではない。

自分が「諾(イエス)」を言う、そのことが あらゆることを変える。


 それを 四つの頭を持った神に言おうと、四百の頭を持った神に言おうと、手が二本の神に言おうと、手が千本の神に言おうと、ヒンドゥー教の神に言おうと、キリスト教の神に言おうと、回教の神に言おうと、あるいは それを 自然に向かって言おうと、あるいは運命に、定めに 向かって言おうと、そんなことに 何の違いもない。

誰に向けているかに 要点はない。

もし あなたが「諾(イエス)」を 言えば、それであなたは 宗教的になる。


「否(ノー)」を 言えば、それは あなたが奮闘を続ける という意味だ。

流れに 闘いをいどみ、河に 逆らおうとしている。

自分を 道(タオ)よりも賢いと、存在よりも偉大だと考えている ということだ。

そうなれば無論、当然、明らかなことだが、あなたは 挫折することになる。
それ は 事実ではないのだから。


 自分が「諾(イエス)」を 言った瞬間、その〈生〉は 新しい次元に 花開き始める。

その「諾(イエス)」の次元が 宗教の次元だ。

その「否(ノー)」の次元が 政治の、科学の、その他 あらゆるものの次元だ。


 神秘家とは、河と ともに流れる者のこと。
河を 押すことはしない。
神秘家は その中を 泳ぐことすらしない。

なぜなら 泳ぐことも またひとつの闘いだからだ。
神秘家は ただ漂う。
彼には 行き着くべき どんな目的地もない。

どうやって 人に目的地など決定できよう。
自分が 何者だと言うのか。

どうやって 自分に 目的地を定めることなどできよう。


 河に 身を任せ切れば、河が 流れる。
自分は それと一緒に流れる。

その 河の目的地が 自分の目的地だ。

それが どこか、いったい どんな所なのかさえ、気にしない。

「諾(イエス)」を言う という大いなる秘法を学んだ今となっては、自分が どこにいようと、自分が目的地だ。

なぜなら、「諾(イエス)」こそが 目的地なのだから。

どこに到達したかの問題ではない。

どこにいようと、「諾(イエス)」を言えば、それ が目的地だ。


 そしてもし、自分が「否(ノー)」に 溺れているなら、どこにいようと それは旅の途中、決して目的地にはならない。

どこに到達しようと、その「否(ノー)」が 一緒に到達するからだ。

たとえ天国に 入ろうと、その「否(ノー)」が 一緒について来る。
どこで それを手離そうと言うのかね。


 今のままの あなたでは、たとえ究極の力に出会ったとしても、「否(ノー)」を言うことになる。

何しろ、そう訓練しているのだから。
急に、どうして「諾(イエス)」が 言えよう。

たとえ神に出会っても、「ノー」を言うだろう。
たくさんの 欠点を見つけ出すだろう。

否定志向(マインド)にとっては 何ひとつ完璧なものはないからだ。

肯定志向(マインド)にとっては、不完全性にすら それなりの完全性がある。

矛盾して見えるかも知れないが、肯定志向マインド)なら言うだろう。
「何と 見事に不完全なのだろう。
何と 完璧な不完全性だろう」と。


 肯定志向(マインド)にとっては 混沌の中にすら 宇宙秩序が存在する。

そしてその「諾(イエス)」は、物質の中をさえ貫き、〈神性〉を発見する。

そうなれば、岩さえ すべて〈神性〉で満たされる。

そうなれば、〈神〉は 至る所にいる。

「諾(イエス)」を言える者は、至る所に 神を見出だすことになる。

そして「否(ノー)」しか言えない者は、どこにも神を 見出だすことはできない。

それは こちら次第だ。
神の責任ではない。


 変容をもたらす ひとつの理解は、全体を相手に 闘うな、ということだ。

…05へ 続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所