第十章、「昨日もなく、明日もなく、今日もない」03

(…人に実在を変えることはできない。
人に変えられるのは、この偽りの思考(マインド)過程だけだ。)


通常 私たちは 現実を変えて、現実の方を 自分に合わせようとする。

宗教的な人間とは、この 馬鹿げた努力から降りた者のことだ。

宗教的な人間は、もはや現実を自分に合わせて 変えようなどとはしない。
そんなことは 意味をなさないからだ。

全体が 部分に 合わせることはできない。
いかなる意味でも、全体 が 部分に従ったりはできない。

部分が 全体に従わなければならない。


 私の手は 私の有機的な肉体に、私の全身に 従わなければならない。

私の全身が 手に従うわけにはいかない。

それは 不可能だ。

部分は小さい、微々たるものだ。
この 広大な実存の前で 自分など何者だろう。

どうやって この実在を 自分に合わせようと言うのかね。


 努力をし続けるように言う その者こそが エゴだ。
いつの日か、実在が自分に 合わせなければならないはずだ、と。
そこで 人は苦悩を背負うことになる。

そんなことが 起こるはずがないからだ。

事の本性からして、それは 起こり得ない。

一滴の水が、大海を変えようと言うのかね。
一滴の水が、自分の考えで 海に影響を与えようと言うのか。


 人の 思考(マインド)とは 何か。
この広大な海の中の 一滴ですらない。

しかも、あろうことか、あなたは 実存の方を 自分に従わせようとしているのだ。

真理の方が 影のように 自分に従うべきだ、と。

これこそが あらゆる世間的人間(マインド)の、自分を 物質主義者と考える人々すべての 愚かさだ。


 それでは 宗教的人間とは何か。
宗教的精神(マインド)とは どんなものか。

宗教的人間とは これが絶対的に 起こり得ないと 理解した人、不可能な壁を叩いているのだと理解した人のことだ。

どうしても そこは 扉にはならない。
ただ自分が 傷つくだけだ。
ただ自分が 苦しむだけだ。
ただ自分が 失望し、自分が失敗するだけだ。
それ以外、どんなことも あり得ない、と。

これが あらゆる自我(エゴ)に 最後に起こることだ。
エゴは 苦しむ。
エゴは いつも 十字架にかけられている。

自分の愚かさ故に 十字架にかけられる。


 理解の夜明けが始まったら、自分が 部分に過ぎないということ、無限の 大宇宙の中の無限に小さな部分に過ぎない という事実が見えて、分かったら、ただただ 馬鹿げた真似をしようとは しなくなる。

無駄に 時間を過ごすのは やめる。

むしろ逆に、人は 新しい旅を始める。

実存の方に 自分を合わせようとする。

人が 自分を 実存に合わせようと し始めたら、やがて夢を 見なくなる。

なぜなら、それなら可能だからだ。
それこそが 唯一の可能性だ。

そして それは起こる。
それが起こった時、夢は止む。


 自分に合わせて 実在を変えようとしていれば、人は思索家になる。

なぜなら、実在を自分に 合わせようと、さまざまな手段と方法を発明し、工夫を こらさなければならないからだ。

その人は 偉大な科学者には なるかも知れない。
偉大な数学者には なるかも知れない。
偉大な哲学者には なるかも知れない。
だが、不安と苦悩に 陥ることになる。



 踊る ミーラにも、沈黙する 仏陀にも、歓喜に溢れた 僧サンにもならないだろう。


…04へ 続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所