読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

第九章「これでもない、それでもない」15

(…人はセックスから超意識に至らなければならない。
この一千枚の花弁を付けた蓮華こそ意識の中心だ。)


だから 今度また性的な気分になったら いつでも、「二ではない」と言いなさい。

理解をもって、意識をもって、油断なく覚めて、「二ではない」と言うのだ。

そして 落ち着いていなさい。
そわそわと 興奮しないことだ。

落ち着いて、「二ではない」と言いなさい。


 すると、突然 自分の頭の中で 何かが起こるのを感じるはずだ。
以前は 下に向かっていたエネルギーが、上に向かって動いている。

そして ひとたび第七のセンターに達すれば、それ は変容し、吸収される。

すると人は ますますエネルギーに 満ち溢れる。

そして エネルギーが喜び、エネルギーが 歓喜なのだ。

そうなれば、もう それを放出する必要はない。
今や あなたは 海のような、無限の自己だからだ。

あなたは 無限を吸収することができる。

あなたは 全体を吸収することができる。

それでも なお余りがある。


 この肉体は 狭い。
だが 人の意識は 狭くない。

人の意識は 大空のように広大だ。

この肉体に あまり多くのものを 担うことはできない。
この肉体は ほんの小さな器に過ぎない。

ほんの少しの 余分なエネルギーで この器は溢れてしまう。

人のセックスとは この器、この狭い肉体が溢れたものだ。

だが サハスラーラが開いたら、人の頭の中にある 一千枚の花弁を付けた蓮華が開いたら、それは 一枚一枚と どこまでも開き続け、決して終わることはない。

全体が注ぎ込まれても、まだ無限の空間が残っている。



 覚者は 宇宙よりも大きい と言われる。
これが その意味だ。
もちろん、その肉体が 宇宙より大きいわけではない。
分かりきったことだ。

だが覚者は、蓮華が開いたが故に 宇宙よりも大きい。
今や この宇宙など何でもない。

何百万という宇宙が その中に落下し、再吸収され、蓮華は 成長し続けることができる。



 それは 完全でありながら、しかもなお 成長し続ける。

これこそが 逆説だ。

我々は 完全性は成長できない と考えている。
だが 完全性もまた成長する。

それは より完全に、より完全にと 成長して行く。

それは 無限なるが故に 成長し続ける。


 これこそが 仏陀の言
う「空(クウ)」、シュンニャータだ。

自分が 空っぽなら、全体が入って来ても まだ無限の余裕がある。
いくらでも 余裕がある。

まだ いくつでも宇宙が 自分の中に入って来ることが、落下することができる。



 “この「不二」の中で、何ひとつ分離されるものもなく、

 また排除されるものもない。

 時と所は問題ではない。

 光明を得るとは、この真実相に入ることだ。

 この真理は、時空の大小を超えている。”



「“この真理は、時空の大小を超えている”」。
この真理にとっては 時間も空間も 存在しない。

それは 超越している。
それは もはや何物にも 囲まれていない。
時間にも 空間にも。
それは 空間よりも大きく、時間よりも大きい。




 “そこでは、一瞬の想いと、万年の永さに違いはない。”


 これはただ、その中では 一瞬が永遠だ という、ひとつの言い方だ。
覚者(ブッダ)は 時間の中に 住んではいない、空間の中には.住んではいない。

その肉体は 動く。
我々は その肉体を 見ることはできる。
だがその肉体が 覚者(ブッダ)ではない。

ブッダとは 我々には見ることのできない その意識だ。

その肉体は 生まれ、そして死ぬ。
が、その意識は、決して 生まれも死にもしない。

だが 我々は その意識を見ることはできない。

そして その意識こそが ブッダだ。



 この 光明を得た意識こそが、私たちの 全存在の根だ。

そして 根であるだけでなく、それの開花でもある。

時間も空間も ともに この意識の中に存在する。

この意識が 時間と空間の中に存在しているのではない。

この意識が どこにあるのかを 言うことはできない。
どこかは どうでもいいことだ。

それは 至る所にある。
いや むしろ逆に、あらゆる場所が その意識の中にある と言った方がいいかも知れない。



 私たちには、この光明を得た意識が、時間のどの瞬間の中に存在するか を言うことはできない。
いや それを言うのは不可能だ。

私たちには、時間は すべてこの意識の中に存在する としか言えない。

この意識の方が 大きい。
そして、それは そうでなければならない。
なぜ、そうでなくてはならないのか。


 大空を見れば、その空は 広大だ。
だが それを 見る者、その目撃者は もっと大きい。
さもなくて、どうして その空を 見ることができよう。

人の意識は その大空よりも 大きくなければならない。
さもなければ、どうして それを見ることが できるかね。

見る者は 見られる者より 大きくなければならない。
それしか ありようはない。


 人は 時間を見ることができる。
こう言うことができる。
「今は朝だ。 今は午後だ、 今は夕方だ。
一分が経った。 一年が経った。
ひとつの時代が 過ぎ去った」と。

この 見ている者、この意識の方が、時間より 大きくなければならない。
そうでなくて、どうして 見ることができよう。

見ている者は、見られる者よりも 大きくなければならない。


 あなたは 空間を見ることができる。

あなたは 時間を見ることができる。
それなら、あなたの中にいる この見る者は、その両方より大きいのだ。

ひとたび光明を 得れば、すべては あなたの中にある。

すべての星は あなたの中を巡り、世界は あなたから起こり、あなたの中に 溶け入る。

なぜなら、あなたこそ その全体だからだ。


…(第九章 おわり、「昨日もなく、明日もなく、今日もない」へ 続く)


NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所