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第九章「これでもない、それでもない」14

(…エネルギーを使うのに もうひとつの方法がある。)

それは、エネルギーが溜まり過ぎると、それを放出せず、ただ「二ではない」と言う方法だ。

「自分と宇宙は ひとつだ。
どこに放出する所があろう。
誰と愛し合うと言うのか。
どこに それを投げ出せよう。
それを投げ出す所など どこにもない。
自分は 宇宙とひとつだ」と。


エネルギーが 溜まり過ぎたと感じたらいつでも、ただ「二ではない」と 言いなさい。

そして 寛いでいなさい。


 もし、それを第三の眼から 投げ捨てなかったら、それは 第三の眼よりも高く昇り始める。

そうして ついには、頭の中にあって ヒンドウー教徒が サハスラーラと呼ぶ、最後の、第七のセンターに行き当たる。

千枚の花びらを持った蓮の花だ。

エネルギーが そのサハスラーラに達した時、そこに至福がある。


エネルギーが 性中枢(セックス・センター)に達した時、そこにあるのが幸福だ。


 幸福は 束の間でしかあり得ない。
それは 放出が 一時のものでしかあり得ないからだ。

放出すれば 終わってしまう。
放出し続けることはできない。

緊張は 解き放たれ、エネルギーは消える。


だが至福は 永遠のものであり得る。
なぜなら、そこではエネルギーは 放出されるのではなく、再吸収されるからだ。

放出のセンターは セックスだ。
これは 第一のセンターだ。

そしてエネルギーの 再吸収センターが 第七の、最後のセンターだ。


 そして いいかね、この二つは ひとつのエネルギー現象の両端だ。

一端は セックスであり、もう一端が サハスラーラだ。

一端からは エネルギーが ただ放出されるだけだ。
今や 何をするエネルギーも残っておらず、ほっとして 人は眠りにつく。

セックスが 眠りに役立つのは そのためだ。
だから人々は これを ひとつの精神安定剤、睡眠剤として使う。



 もし人が エネルギーを再吸収する もう一方の端に向かったら---というのも、エネルギーを投げつけるべき相手などおらず、自分が全体なのだから---その時には 千枚の花びらをつけた蓮が 花開く。

一千枚とは、無限の花弁を付けていると言うだけのことだ。
無限の花弁を付けた 蓮華が花開く。

一枚 また一枚と 開き続ける。

それには 終わりがない。
なぜならエネルギーは 内に向かって流れ続け、再吸収されるからだ。

すると そこに至福がある。

そして至福は 永遠であり得る。


 人は セックスから 超意識に至らなければならない。

この 一千枚の花弁を付けた蓮華こそ 意識の中心だ。


…15に 続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) 禅文化研究所