第九章「これでもない、それでもない」10

 “このような「如」の世界には、

 自己もなく、また自己でないものもない。”


 自然を受け容れ、その中に 溶け込んで行けば、人は それとともに動くことになる。

どんな 一歩も もう自分の一歩ではない。
踊りは 自分の踊りではない。

小さな歌すら もう自分自身の歌ではない。

全体の歌が自分の歌、全体の踊りが自分の踊りだ。

人は もう切り離されてはいない。


 人は もはや「自分がいる」とは感じない。
ただ こう感じるだけだ。
「全体が いる。
 私は 来ては往き、寄せては返し、
 現れては また消える ひとつの波に過ぎない。
 私は やって来ては去る。
が 全体は残る。
 そして私は 全体の故に存在し、全体は 私を通して存在する」と。


 形を取ることもあれば、無形のものになることもある。

どちらも 美しい。

時には 肉体の中に宿り、時には 肉体から立ち去る。
それは、そうでなければならない。
〈生〉は リズムだからだ。

形態の中に 止まらなければならないこともあれば、その後では、形あるものから寛がなければならない。

ある時は、ひとつの波として能動的に 活動しなければならず、別な時には、海の底で 静かに休息する。

〈生〉とは リズムだ。


 死は 敵ではない。
それは単に リズムの転換、もう一方への 移動に過ぎない。
間もなく あなたは より若く、新鮮になって、また生まれて来るのだ。

死は ぜひとも必要なものだ。

人は 死の中に 死んで行くのではない。
ただ 自分のまわりに かき集めたすべての埃りを 一度洗い落とさなければならないのだ。
それが若返るための 唯一の方法だからだ。

イエスだけが 復活するのではない。
存在の中では あらゆるものが復活する。

 ちょうど今、外の巴旦杏の木が すべての 古い葉を落として、新しい葉が それに替わった所だ。

これが やり方だ。
古い葉に こだわったら、その木は 決して新しくなれない。
そうなれば いつか、腐ってしまう。

なぜ そんな葛藤を起こすのか。
古いものが消えるのは、ただ 新しいものが来るために過ぎない。

新しく来るもののために 席を譲る、空間を、部屋をあける。

そして新しいものは 常に来ようとしており、古いものは、常に 立ち去ろうとしている。


 あなたは 死なない。
ただ 新しいものに席を譲るために 古い葉が落ちるだけだ。

あなたは ここで死に、あちらで生まれる。
あなたは ここで消え、あちらに現れる。

形あるものから 無形のものへ、無形のものから 形あるものへ。

肉体から 非肉体へ、非肉体から 肉体へ。

活動から休息へ、休息から活動へ---これが そのリズムだ。

もし このリズムを見たら、あなたは もう何も心配しない。
あなたは 信頼する。


「このような『如』の世界には」、この信頼の世界には、「自己もなく、また自己でないものもない」。

そうなれば、そこに「自分」は いない、またどんな「汝」も いない。

その両方が消えて、ともに〈一なるもの〉だけが存在する。

その〈一なるもの〉こそが実在だ、真理だ。


 “この実在と直ちに調和するためには、

 疑いが起これば、ただ「二ではない」と言うがいい。”


 これは最も古い 真言(マントラ)のひとつだ。
疑いが起こった時には いつでも、自分が 切り離されていると 感じた時には いつでも、二元性が 入って来ていると 見えた時にはいつでも、心の内で ただ「二ではない」と言いなさい。

ただし 意識して言いなさい、ただ機械的に 復唱してはいけない。


 これが あらゆるマントラについての問題だ。
本当は、これこそが すべてにおける問題なのだ。

人は それを機械的になし得る。

そして 要点を逃がす。

何もかも やっていながら なお的を外す。

あるいは、人は それを十分に意識して、知性と理解を持って することもできる。
その時こそ それが起こる。


 愛が起こるのを 感じたらいつでも「二ではない」と言いなさい。
さもなければ、憎しみが 待ち受けている。

それは ひとつだ。

憎しみが こみ上げて来るのを 感じたら、「二ではない」と言いなさい。
〈生〉への執着を 感じたらいつでも「二ではない」と言いなさい。
死への 恐怖を感じたら いつでも、「二ではない」と言うのだ。

あるのは〈一なるもの〉だけだ。


 そして この言葉は 自分の理解でなければならない。
それは知性に、明晰な 洞察に満ちていなければならない。

すると突然、人は その中で ある寛ぎを感ずるだろう。
「二ではない」と 言った瞬間、もしその言葉を 理解して言っており、機械的に繰り返しているのでなければ、突然の閃きを 感じるはずだ。


 誰かに侮辱され、自分が その侮辱を感じた とする。
ただ 思い出して「二ではない」と 言いなさい。

というのは、侮辱した者も、侮辱された者も ひとつだからだ。

だとすれば 何を心を悩ませる必要があるだろう。
相手は あなたに 何かをしたわけではない。
自分自身に したのだ。

なぜといって、〈一なるもの〉しか 存在しないのだから。

…11に 続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所