第九章「これでもない、それでもない」08

(…だが私たちは ちょうどその反対をやろうとする。)


私たちは 相手を殺そうとする。
だが相手を 殺すことはできない。

相手を所有し、支配することはできない。

相手は 反逆することになる。
その相手もまた、あなたを 殺そうとしているのだから。

あなた方は 同じエゴのために 闘っている。
相手は相手のエゴのために、あなたはあなたのエゴのために。


 世の中の政治とは すべて、自分 一人が残って 平和になるために、いかにして相手を殺すかだ。
自分が 一人いて、他に 誰もいなければ、すべては平和になるからだ。
だが、こんなことは 起こったこともなければ、これから起こることもない。

どうやって他人を殺すことができよう。
どうやって他者を滅ぼすことができると言うのか。
他者は広大だ、全宇宙が他者だ。


 宗教は それとは違った位相を通して 働きかける。
それは「自分」を落とすことを試みる。

そして ひとたび「自分」が落ちれば「他人」は いない。
他者は 消えてしまう。

だからこそ人は 自分の不平と恨みに執着するのだ。

なぜなら、それが「自分」が ここにいることを 支えているからだ。

靴が きつければ、「自分」は より容易に存在し得る。

靴が きつくなければ、足は 忘れられ、「自分」は消える。


 人は、自分の病いに執着する。
自分の不平に執着する。
そういう自分を締めつけるもの すべてに執着する。

そして それが傷であり、自分は それから癒されたいのだ と言い続ける。
だが 内面深くでは、その傷を 作り続けているのだ。
何しろ、傷が すべて癒されたら、自分が いなくなってしまうのだから。


 人々を よく見ていなさい。
誰もが 自分の病いに 執着している。
まるでそれが、語るに値することでもあるかのように、自分の病いについて語る。
他の何についてよりも、病いについて、自分の 否定的な気分について語る。
その 言う事を 聴いてみてごらん。
そうすれば、相手が それについて話すのを楽しんでいることが分かるはずだ。


 毎晩、私は聴かなければならない。
何年もの間、私は ずっと聴いて来た。
その顔を 見れば、向こうは それを楽しんでいる。
殉教者なのだ。

自分の病い、自分の怒り、自分の憎しみ、あれこれの問題、自分の貪欲、自分の野心。
そして、ただ見ていると、事の全体は ただただ狂っている。

というのも、この人達は そういうことを、何とか取り除きたいと 口では訴えているが、その顔を見ると、それを楽しんでいるからだ。

もし そういうことが全部 本当に無くなったら、この人達は いったい何を楽しめばいいのか。

もし その病いが全部 消えて、完全に 欠けることなく、健康に なったら、この人達には 話すことが無くなってしまうだろう。


 人々は 精神医の戸を叩き、それについて語り続ける。
自分が これまで、いろいろな精神医を 訪ねたこと、この導師あの導師と、いろいろな人の所に いたことがある、と。

実際 この人達は それを楽しんでいるのだ。
「皆さんどの方も、私については失敗しました。
私は 今だに、同じままです。
どなたも私を 変えることはできませんでした」。

この人達は これを、まるで自分が 成功してでもいるかのように 楽しんでいる。

何しろ、この人達は、あらゆる医者が失敗したと、あらゆる「道」が 駄目だったと証明しようと しているのだから。



 ある憂鬱症の 男の話を聞いたことがある。

 この男は 絶え間なく自分の 病気のことばかり話していた。
誰も この男の言うことなど 信じなかった。
何しろ、あらゆる診察を受け、検査してみても、どこも 悪くなかったからだ。

ところが 男は毎日 医者に駆け込む。
何とも大変そうなのだ。


 そのうち だんだん医者にも 分かって来た。
どうも この男は、自分が何か 耳にすると、例えばテレビの 薬のコマーシャルで 何かの病気の話が出たりすると、たちまち その病気になってしまうらしい。
雑誌で 何かの病気について読んだりすると、たちまち病気になって、医者の所に やって来る。
すっかり その病気になってだ。
しかも当人は あらゆる症状を模倣している。

 ある時、医者が本人に 言った。
「あまり私を 煩わせないでくださいよ。
私も あなたが読んでいるのと同じ雑誌を読んでいるし、あなたが見ているのと 同じテレビを見ているんですからね。
それがあなたときたら、次の日には もう その病気を持って ここに来るんだから」

 男は 言った。
「自分が 何様だと思っているんです。
この町に 医者は あんた一人じゃないからね」

 男は この医者の所には 来なくなった。
だが 病気についての狂気は 相変わらず止まなかった。

それから男は死んだ、誰もが死ななければならないように。

死に先立って男は 妻に 自分の墓の 大理石の上に、刻むべき言葉を言い遺した。
その言葉は 今でも そこにある。
墓石の上に 大文字で こう書かれている。

「今こそ、我が正しきを 知りぬべし」と。


 人は 自分の不幸を大層な宝物にする。
もし この人達の不幸が すべて消えてしまったら、みんな どうするのだろうと、時々思うことがある。

あんまり することがなくて、みんな自殺するかも知れない。
これは 私の観察だが、ある不幸から 出られるように助けてもらうと、みんな 次の日にはもう、何か 別の不幸を持って ここに来ている ということだ。
それから抜け出すよう助けてもらうと、また次の不幸を掴もうとしている。
あたかも不幸に対する 深い執着が あるかのようだ。
みんなは そこから何かを得ている。

それは、ある投資だ。
しかも 割に合う投資なのだ。


…09に 続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所