第九章「これでもない、それでもない」06

(…受け容れれば それは終わる。
半分いやいやに受け容れることによって、それは運び出される。
 ひとつ覚えておきなさい、完了していないものは何でも、思考(マインド)によって いつまでも持ち運ばれる。)


完了したものは何でも、捨てられる。
なぜなら、いつかそれを完了する機会が あるかも知れないと思うばかりに、完了していないものを持っていたがる傾向が、思考(マインド)には あるからだ。


 あなたは方は 今でも待っている。
妻が、あるいは夫が、あるいは過ぎ去った日々が帰って来るのを。
まだ 待っている。

あなた方は 未だに、過去を超えていない。
そして その積みすぎた過去の荷物のために、現在に生きることが できないのだ。


 あなた方の現在は、過去のために めちゃくちゃになっている。
そして未来も 同じことになるだろう。
過去は ますます重くなって行くのだから。
それは 日 一日と重くなって行く。


 本当に受け容れた時は、その あるがままの態度の中に 恨みがましさはない。

仕方がないのではない。
ただ それが物事の性質だ ということを理解しているだけだ。

例えば、もし私が この部屋を出たかったら、私は 扉から出て行くだろう。
壁を 通ろうとはしない。

壁を通り抜けようとしたところで、自分の頭を打つだけで、およそ馬鹿げているからだ。

それが 壁の性質だ、遮ることが。
だから誰も そんなものを通り抜けようとはしない。
通り抜けられるのは、戸口の性質だ。
戸口なら 空っぽだから、通り抜けることができる。

 覚者が 受け容れる時は、物事を この壁と戸口のように受け容れる。
覚者は 戸口を通り抜け、それしか道がないと言う。

あなた方は まず、壁を通り抜けようとして、ありとあらゆるやり方で 自分を痛めつける。

叩きつけられ、押しつぶされ、打ちのめされ、転落して、やっと 抜けられないと分かって、戸口の方へ 這って行く。

まず最初に 戸口を通り抜けることだってできたのだ。
なぜ壁と 闘い始めたりしたのかね。


 もし、はっきり物事を見られたら、壁を 出口にしようとなどしないだけだ。

愛が 消えたのなら、それは 消えたのだ。

今もし、そこに壁があるのなら、それを 通り抜けようとしないことだ。
今では、扉は もうそこにはない。
ハートは 誰か他の人に 開かれてしまった。
それに、ここには あなた一人しかいないわけではない。
他にも人はいる。


 その扉は もうあなたのためのものではない。
それは 壁になってしまった。
それを開けようと、自分の頭を ぶつけたりしないことだ。
不必要に 傷つくだけだ。

それに、傷つき、打ちのめされた後では、戸口も、通り抜けて そんなに素晴らしいものではなくなる。


 ただ、事態を 見てごらん。
自然な物事の上に、どんな不自然なものも 押しつけようとしてはいけない。
戸口を 選びなさい。
そこから 抜ければいいのだ。

毎日 あなたがしているのは、壁を通り抜けようとするような 愚かなことだ。
そうして緊張し、絶えず困惑し、かくて苦悩が〈生〉そのものに、その核になる。
そしてあなたは 瞑想を求める。

 だが なぜ最初から、あるがままの事実を見ないのだろう。
どうして その事実を見ることができないのか。

それは、願望が あり過ぎて、見込みのないことばかりを 望み続けるからだ。
それほど どうしようもない事態に立ち至るのは そのためなのだ。

 ただ 見なさい。
状況がそこにある時は いつでも、何を望んでもいけない。

欲望すれば、横道に逸れることになるからだ。
何も 願わず、何も空想しないことだ。
ただ事実を、自分に可能なかぎりの 全面的な意識を持って 見てごらん。

すると突然、扉が開く。
そうすれば、人は 決して壁を通り抜けたりはしない。
戸口を通り抜ける。
かすり傷もできない。

そうすれば、重荷を背負うこともない。


 いいかね、「あるがまま」とは、理解だ。
どうすることもできない 運命ではない。
それが 違いだ。

運命、定めを 信じている人達がいる。
そういう人たちは「仕方がないさ。神が こう望まれたんだ。
私の子供は 死んでしまった。
これが神の意志、そして私の運命なんだ。
決まっていたのさ。
こうなるはずだったんだ」と言う。

 だが 深い所には、拒否が ある。
こういう言葉は、その拒否を 磨き上げるための ごまかしに過ぎない。

神を 知っているのか、運命を知っているのかね。
それが決まっていたと、知っているのかね。

そうではない、それは理屈だ。
そう言って 自分を慰めているのだ。


 「あるがまま」の態度とは、運命論者の態度ではない。

それは 神も、運命も、定めも、何も 持ち込まない。
単に、事実を見よ、事態の「事実性」を ただ見よ、と言うに過ぎない。

理解すれば、そこに扉が ある。
扉は 常にある。
それで、人は 超越している。

「あるがまま」とは、仕方なく ではなく、心から歓迎して 受け容れることを言う。


…07に 続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所