第九章「これでもない、それでもない」04

(…仏陀も死ななければならない。
何も変わりはしない。 だが、彼は違った死に方をする。)


仏陀は、まるで 死などないかのように、実に嬉しげに死ぬ。
彼は ただ消える。
というのも、彼は こう言っているからだ。
生まれた者は 死ななければならない。
誕生が 死を意味しているのだから、それでいいのだ、それについて できることは何もない、と。


 人は 惨めに死ぬこともできる。
が、それでは、要点を取り逃がす。

死が与えることのできる 美しさを、最後の瞬間に起こる 慈悲を、肉体と魂が分かれる時に起こる 閃きを取り逃がす。

あまりに 心配をし過ぎ、あまりに過去と 肉体に執着するために、目が塞がり、人は それを 取り逃がすことになる。

死を 受け容れることができず、目を閉じ、自分の全存在を 閉じているために、何が起こっているのかを 見ることができない。

人は死ぬ---何度も死に、しかも その要点を逃し続けることになる。


 もし、受け容れることができたら、死は 素晴らしいものだ。

もし、心から歓迎し、暖かく迎えながら、扉を開くことができたら。
「そうだ、生まれた以上、私は 死ぬべき者だ。
では、その日が来たのだ。
円は完成する」と、死を 客として、招かれた客として 受け容れる。

すると、現象の質は 瞬時にして変わる。


 突如として、人は 不死だ。
肉体は 死んで行く。
が、自分は 死んで行かない。

今や、着物だけが 落ちて行くのを 見ることができる---自分ではない。

ただ覆いだけが、入れ物だけが 落ちて行く---中身ではない。
意識は その本来の輝きの中に止まる。
いや、 輝きは増す。

〈生〉の中で たくさんの覆いを被っていた意識も、死の中では 裸になっているからだ。
そして、意識が全面的に 赤裸々である時、そこには固有の 輝きがある。
それこそが、この地上で 最も美しいものだ。

 だが、そのためには、「あるがまま」の態度が、吸収されていなければならない。
「吸収」と言う時、私はまさに「吸収」を意味している。

単に頭で考えるのではなく、「あるがまま」という哲学ではなく、自分の 生き方全体が「あるがまま」になることだ。

それについて 考えることさえしない。
ただ それが自然になっているに過ぎない。


 あるがままに 食べ、あるがままに 眠り、あるがままに 呼吸し、あるがままに 愛し、あるがままに 泣く。
それが、自分の様式そのものになっている。
悩む必要もなく、考える必要もない。
それが 自分の あり方だ。
それが「吸収」という言葉で、私が 言っていることだ。

それを吸収し、それを消化する。
それが血液の中を流れ、深く骨の中まで達し、心臓の鼓動そのものになる。
受け容れたのだ。


 いいかね、この「受け容れる」という言葉は、あまり良くない。
ある ニュアンスが付いている。

それは この言葉の せいではなく、あなた方の せいなのだが。


05に続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所