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第八章 信を生きる by OSHO, (11)

(…だからこそ東洋の我々は、瞑想を強調してきた。 そして西洋では、道徳を強調してきた。)


初めて ウパニシャッドが 西洋の言葉に翻訳された時、学者は困惑した。
ウパニシャッドの中に 十戒に類するようなものを何ひとつ発見できなかったからだ。

「かくする勿れ、かくせよ」そこにはそのような言葉は何もなかった。

彼らは戸惑った。
どうして これでこのウパニシャッドが宗教書なのか、と。
というのは、西洋では宗教が道徳を、「かくする勿れ、かくせよ」を、つまり 行為の指示を意味していたからだ。

ところが、ウパニシャッドは、何をすべきかについては 語らない。
それは ただ、いかにあるべきか、何で あるべきかについてしか語らない。


 いかにして、より油断なく、より目覚めているか、それが ただひとつの問題だ。

いかにして洞察が起きるほどに、覚めていることができるかだ。
それで、両極が ひとつになり、二元性が消える。
深い覚醒の 洞察の下では、罪人は消える、聖人も消える。

なぜなら、それは両方とも 二元性に属しているからだ。
神も死に、悪魔も死ぬ。
なぜなら、それもまた 二元性に属するもの、思考(マインド)が 創り出したものだからだ。


 だから キリスト教は、これまで 絶え間のない 深い混乱の中にあった。
というのも、悪魔と神を どうやって折り合わせたらいいのかね。
これこそは 本当に問題だ。

まず第一に、どうやって この悪魔は入り込んで来たのか。
もし神が それを造ったと言うなら、責任は 神自身にあることになる。

そして最後には 何が起こるのか。
誰が勝つことになるのか。
もし、最後には 神が勝つことになると言うなら、では この途上の、それまでの この葛藤はすべて何のためにあるのか。

もし 最後には、神が勝つことになるのだったら、どうして 今ではいけないのか。


 また、最後の勝利、勝者など あり得ない、闘争は続くのだ と言うなら、悪魔が 神と同じほどに強いことになる。
それに 誰に分かる、もしかしたら最後には 悪魔が勝つかも知れない。

もし悪魔が勝ったら、あの聖者たちは みんな、いったい どうなる。
そうなったら、罪人は喜び、聖者は 地獄に放り込まれることになる。

だが、こういうことは みんな、二元的な思考(マインド)のために 起こることだ。


 思考(マインド)には、神と悪魔が ひとつだということが分からない---が、それは ひとつだ。

悪魔とは単に、反対側、もう片方の端、憎しみ、死であるに過ぎない。
それで、神は愛で、悪魔は憎しみ、神は慈悲で、悪魔は暴力、神は光で、悪魔は闇だ と言われるのだ。
何という馬鹿馬鹿しさだ。

なぜなら 闇と光は ひとつのエネルギーの両面だからだ。
善と悪も、正と邪も、徳と不徳も、これらは ともにひとつの現象の両極だ。
そして、その ひとつ の現象を 存在と言う。


 僧サンなら それを神とは呼ばない。
なぜなら、もし それを神と呼んだら、悪魔を否定することになる。

それは 神プラス悪魔だ。

存在は、夜と昼の両方、朝と夕べの両方、幸福と不幸、その全部だ。
それは 一緒のものだ。

そして、これを---天国と地獄を両方一緒に---見たら、どこに選択があるか。
何かを選ぶこと、あるいは 何かを求めることに、どんな意味があるだろう。


 あらゆる要求は止み、「信」が 湧き上がる。
信頼が起こる。

二元性が止み、「一」があるとさえ言えないような 真理の虚空の中で、信頼という未知なる現象が花開く。

最も美しいもの、最も貴重な何かが花開く。

そして それこそが信頼という花だ。


…(12)に 続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所