第八章 信を生きる by OSHO, (10)

 
 それに この人たちは、あれこれやってきており、その長いリストを持っている。
たくさんのことを成し遂げているのに、未だに神は相変わらず遠くにいる。

この人たちは 信頼していない。
この人たちはまだ〈生〉と闘っている。
〈生〉を、その起こるがままに 任せていない。
この人たちには 自分の考えがあって、それを〈生〉に 押しつけている。
それが.不信だ。


 不信とは、自分には 押しつけるべき ある考えがある ということ、自分を〈生〉そのものより賢い と思っているということだ。

それが不信頼、それが不信だ。
自分を 押しつけたいのだ。

キリスト教ユダヤ教の教会に行って、人々が 神に祈っているようすを見てみなさい。
何と言っているかね。
彼らは 神に忠告して、こう言っている。
「これは しないで下さい。
これは いけません。
私の息子は病気です。
健康にしてやって下さい」と。


 第一、もし本当に信頼しているのなら、自分の息子を病気にしたのは神なのだから、それを 信頼するがいい。
なぜ 不平を言ったり、祈ったりするのか。
神を 改善できるとでも考えているのだろうか。

あらゆる祈りとは、神に こう祈ることを意味している。
「どうか 二たす二を 四に しないで下さい。
起こるべきことは何であれ、自然なことは何であれ、起こらせないで下さい」と。

そこには 提案すべき考え、何らかの忠告がある。
これは 信頼ではない。

信頼とは、「私など何者でもありません。
私は どこであれ、〈生〉が導く所に行くつもりです---どこへでも。
未知の中へ、闇の中へ。
死であろうと、生であろうと、どこへでも それが導く所へ。
準備は できています。
いつでも用意は できています。
私は ぴったりと合っています」と言うことだ。
だが、いったい いつ人は ぴったりになれるのか。

二元性が 消えないかぎり、見ることができるようにならないかぎり、人は ぴったりにはなれない。
そしてその 見ることそのものが停止に---欲望の、要求の停止になる。


 “道に遊ぶ、ひとつになった心において、

 利己心の努力はすべて止む。

 疑いと不決断は消え、

 信を生きることができる。

 一撃の下に軛は断たれて、

 一切は止まることなく流れ、また記憶する者もいない。”



 「一撃の下に軛は断たれて」。
それは 徐々に起こることではない。
すこしずつ 真実に到るというのではない。
程度の問題ではない。

真実を見れば、一撃によって、一瞬の内に 人は すべての桎梏から開放される。


 これは努力するという問題ではない。
なぜなら、何をしようと 人は思考(マインド)を使ってすることになるが、その思考(マインド)こそ あらゆる惨めさの原因なのだから。

そして 頭(マインド)ですることは どんなことでも、もっと頭(マインド)を強化することになる。
頭(マインド)を使って何をしても、それは努力になる。
頭(マインド)を使って何をしようと、それは二極のうちから ひとつを選ぶことになる。
人は ますます混乱するだけだ。


 だから肝心なことは、何を するかではない、いかに見るかだ。

肝心なことは 自分の性格を変えることではない。
もっと善良になること、もっと聖者のようになること、もっと罪人でなくなることではない。
いいや、そんなことは問題ではない。
問題は、いかにして思考(マインド)なしに見るか、いかにして選択なしに見るか ということだ。

問題は 行為や行動には関係しない、意識の質に関することだ。


 だからこそ 東洋の我々は、瞑想を強調してきた。
そして西洋では、道徳を強調してきた。


…(11)に続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) 禅文化研究所